高価買取のコツ
サイズが適度に大きいもの
小さすぎる着物は、なかなか買値がつかないことが多いです。
現代の人でも着られるような適度なサイズのものは高値がつきます。
襟の汚れ、裏地の変色などのないもの
やはり綺麗な状態のものは高値がつき易いです。
百貨店で購入されたもの
高島屋、三越、大丸さんなどで購入された着物は高値がつき易いです。
老舗の呉服店で購入されたもの
ちた和、きしや、ぎをん齋藤さんなどで購入された着物は高値がつき易いです。
人気作家
- 志村ふくみ
志村ふくみさん(1924年9月30日生まれ)は、滋賀県出身の染織家であり、随筆家でもあります。志村ふくみさんは、民芸運動を提唱した柳宗悦の勧めで染織の道に進みました。彼女は農村女性の普段着とされていた紬織を「芸術の域に高めた」と評価され、文化勲章も受章しています。彼女は故郷の琵琶湖や古典文学、現代美術などからインスピレーションを得て、格調高い織物作品を手がけています。また、随筆の名手としても知られています。 紬織りとは、紡ぎ糸を使用した絹織物で、その織り方の特徴からざっくりとした素朴な風合いを感じることができます。丈夫な素材感のため、普段着としても愛用される機会が多く、着用を重ねていくうちに絹ならではのツヤを楽しむことができます。 志村ふくみさんの作品には、息を飲むほどの鮮やかな美しさがあります。その色が草木から生み出されたものだとは信じられないかもしれません。彼女は自然や伝統文化に敬意を払い、染めの工程を「草木が抱く色をいただく」と表現し、彼女は化学染料にはない、植物から生まれる美しい色を大切にしています。 志村ふくみさんは紬織の重要無形文化財保持者(人間国宝)であり、文化功労者でもあります。さらに、第30回京都賞(思想・芸術部門)を受賞し、文化勲章も受章しています。彼女は京都市名誉市民でもあります。2013年には芸術学校アルスシムラを娘の洋子さんと孫の昌司さんとともに開校しました。 志村ふくみさんの著書には『一色一生』(大佛次郎賞)、『語りかける花』(日本エッセイスト・クラブ賞)、『ちよう、はたり』などがあります。また、作品集には『織と文』、『篝火』、『つむぎおり』などがあります。
- 志村洋子
志村洋子さんは、東京で生まれた染織作家です。志村洋子さんは「藍建て」に強く心を惹かれ、30代から染織の世界に入りました。彼女の師は染織の第一人者であり、随筆家、そして作家でもある実母の志村ふくみさん(重要無形文化財保持者)です。 1989年には、宗教、芸術、教育など文化の全体像を織物を通して総合的に学ぶ場として「都機工房(つきこうぼう)」を創設しました。現在、京都・嵯峨嵐山の工房で志村ふくみさんと共に制作を続けておられます。
- 森口華弘
森口華弘氏は、1909年に滋賀県守山市岡町で生まれました。森口華弘氏は京都の友禅師、三代目中川華邨(かそん)氏の門下生となり、手描き友禅を修得しました。さらに、華邨氏の紹介で、四条派の画家である疋田芳沼(ほうしょう)氏のもとで日本画も学びました。技法的には伝統的な手描き友禅や糸目糊、堰出しなどに加えて、蒔絵からヒントを得た「蒔糊技法」による新しい表現方法を完成させました。 森口華弘氏は色数を極力排し、独自の味わい深く格調高い友禅の世界を開拓しました。1967年に57歳という若さで「友禅」の分野での重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、その後は後継者の育成と指導に尽力しました。1971年に紫綬褒章、1982年に勲四等旭日章を受章しています。 蒔糊は、天日で乾かした糊を細かく砕いて布の上に蒔(撒)いて防染剤にする技法で、江戸時代には「撒糊」と呼ばれていました。角張ったままの形に砕いた糊を、蒔絵のように着物の全面に蒔き、染め分ける色の順序によって微妙な色相変化が生み出されます。 森口華弘氏の独自の蒔糊技法と個性的なデザインは、今でも多くの人々を魅了しています。彼の表現力は明治から平成にかけての染色作家の中でも際立っています。
- 森口邦彦
森口邦彦さんは、日本の染織家であり、人間国宝です。森口邦彦さんは京都市立美術大学(現在の京都市立芸術大学)の日本画科を卒業後、パリ国立高等装飾美術学校でグラフィックデザインを学びました。フランスではガエタン・ピコンやバルテュスと知り合い、友禅に取り組むことを決意しました。 森口邦彦さんは、父である森口華弘氏の下で友禅技法を学び、その特徴的な技法「蒔糊」を習得しました。森口邦彦さんは1967年に日本伝統工芸展に初入選し、以降、各展で受賞を重ね、2001年には紫綬褒章、2007年には父と同じく重要無形文化財「友禅」保持者(人間国宝)に認定されました。 さらに、森口邦彦さんは2013年に旭日中綬章を受賞し、2020年には文化功労者に選定されました。森口邦彦さんは新しい表現を追求しながら、後進の指導と育成にも力を注いでいます。 森口邦彦さんは友禅の技法で人間国宝の認定を受けており、パリで学んだグラフィック・デザインの思考と幾何学文様を大胆に組み合わせて、モダンで洗練された伝統工芸の「友禅」を制作しています。彼の作品は革新的であり、その息吹は伝統を受け継ぎながらも独創的な進化を続けていることを示しています。 また、森口邦彦さんの友禅訪問着のデザインは、2014年にリニューアルされた三越のショッピングバッグに採用されたことでも知られています。
- 北村武資
北村武資氏は、1995年に「羅」の技法、さらに2000年に「経錦」の技法において、2つの分野で重要無形文化財保持者、すなわち人間国宝に認定されています。彼は染織界において最も重要な位置を占める染織家の一人です。 「羅」は、経糸4本を一組とし、一本の経糸が左右の経糸と捩り合って薄い網目状の織りとなり、地と文様を築いていく技法です。紗や絽などと同様、薄く繊細な軽やかさを特徴とし、その複雑な綟れによって、布に美しい〝隙間〟を生み、軽やかな文様を生み出す織物です。 中国・前漢時代に、織られていたとされる「羅」は、日本でも室町時代中頃まで織られていましたが、中世以降衰微し、応仁の乱以降はほとんど織られなくなりました。しかし、1972年の「二千百年の奇跡中国・長沙漢墓写真展」での一枚の写真に映し出された、貴人の棺の内張りとしての羅との出会いを機に、北村武資氏は、「羅」の再現への取り組みを始め、自ら工夫をこらした織り機を考案し、約一年をかけて再現に成功しました。以後、さらに現代性を加えた新しい羅の世界を広げ、1995年に国の重要無形文化財保持者に認定されました。また、北村武資氏は、その高度な技術を再現するのみで満足することはなく、独自のリズムを刻む透かし文様が有機的な糸の力を引き出す「透文羅」として、〝現代の羅〟を見事に示しました。 「経錦」もまた北村武資氏の世界で重要な位置を占めています。中国では漢代に発達し、日本では古墳時代の出土例が報告されており、本格的には飛鳥時代以降に織られたと言われています。経錦は複数(基本は3色)の経糸を一組として、その浮き沈みで文様を表現する織物です。経糸が密に配置されるため、制約が大きく、歴史的には衰退していきました。しかし、北村武資氏は旺盛な探求心を持ち、技法の制約を感じさせることなく、斬新で大胆な経錦の文様を展開しました。文様の図と地の絶妙な配置、柄の大部分と隙間、細部の完璧なリズムで繰り返され、精緻で破綻のない織り組織と洗練された色彩が調和しています。これらの特徴により、北村武資氏の作品は雅な品格を持ち、重要無形文化財保持者らしい織物となっています。 さらに、北村武資氏は織物の基本四原組織(平織・綾織・繻子織・綟織)を研究し、それらが経糸と緯糸の関係を示すものであると考えました。彼は「織物の組織そのものが表現」であるとし、織の構造美を極めました。羅も経錦も一つの技法として相対化し、多様な織物を創作しました。彼はあらゆる織物を繊維の構造体として捉え、織物の創造性を示してきました。 また、北村武資氏は化学染料や明度、彩度の高い色を積極的に採用しました。一見派手な色糸を織物の組織に組み込むことで、洗練された色調を生み出しました。文様構成においても色同士の関係や面積のバランスを考慮し、明度と彩度の高い色彩が典雅で華やかな品格を形成しています。厳選された鮮やかな配色は、文様を明快に、格調高く見せています。 北村武資氏は、1935年に京都市下京区五条で生まれ、織物の世界で重要な役割を果たしました。彼の父親は表具師であり、北村武資氏は15歳のときに西陣で織物の見習い工として働き始めました。西陣は日本を代表する織物の産地であり、彼は機織り職人たちと共に糸を巻き、機をセッティングする仕事を通じて織物に対する主体的な姿勢を身につけました。その後、彼は「龍村美術織物株式会社」に入社し、熟練の技術と作家的な目線を持つ職人たちと交流しながら、織物の本質を理解しました。 北村武資氏は「創作」の概念を追求し、伝統工芸展に作品を出展しました。彼の作品は織の規則性と秩序を保ちながらも、有機的な模様や奥行きを持ち、独自のオリジナリティを発揮しています。また、「変わり織」と呼ばれる素材も織り上げ、糸と糸がダイナミックに結びついて生き生きとした質感を生み出しています。 彼の織帯はフォーマルな場でも広く知られており、多色や金銀糸を使用した作品は華やかで存在感があります。例えば、「煌彩錦」は奥行きのある品の良い華やかさを放ち、「斑錦」は上質な紬から訪問着まで幅広く合わせることができる質感と趣を持っています。 北村武資氏は、2022年3月31日に永眠されました。
- 芹沢銈介
芹沢銈介さんは、日本の染色工芸家であり、静岡県静岡市で生まれました。芹沢銈介さんは静岡市の名誉市民であり、文化功労者でもあります。また、重要無形文化財「型絵染」の保持者であり、人間国宝として高く評価されています。 芹沢銈介さんは、柳宗悦さんとともに民藝運動の共鳴者として、日本各地を訪れて民芸品や民具を調査しました。彼は20世紀の日本を代表する工芸家であり、内外から称賛されています。 芹沢銈介さんは明治28年(1895年)に静岡市葵区本通で生まれ、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)工業図案科を卒業しました。その後、柳宗悦さんと沖縄の染物・紅型に出会い、型染めを中心とした染色の道を歩み始めました。芹沢さんは天賦の色彩感覚と模様への才能を持ち、従来の染色の枠組みにとらわれない斬新で創造的な作品を制作しました。彼は多作であり、染色に限定されない幅広い仕事をしましたが、明快で温和な作風を貫いており、多くの人々に愛されました。 その評価は国内にとどまらず、昭和51年(1976年)にはフランス政府から招聘されてパリで大規模な個展を成功させました。また、文化功労者として認められ、昭和59年(1984年)に88歳で永眠されました。
- 鈴木紀絵
鈴木紀絵さんは、長い間国展で素晴らしい作品を披露し、多くの魅力的な作品を世に送り出してきました。 鈴木紀絵さんが染織の道を選んだきっかけは、日本舞踊を習っている娘の着物を自分で描いて染めたいという思いからでした。この気持ちから染織の世界に足を踏み入れ、型絵染の第一人者である芹沢銈介氏に師事しました。 鈴木紀絵さんは、絞りや型絵染め、手挿しなどさまざまな技法を自由に取り入れ、動植物を描いた愛らしい世界観を表現しています。鈴木紀絵さんの作品は優しさに満ち、夢のような雰囲気が漂っています。
- 秋山眞和
秋山眞和氏は、沖縄で染織を始めた父である故秋山常磐氏の染色技術を受け継いだ染織家です。故秋山常磐氏は大正時代に染織業を展開し、撚糸業を併設し、首里上布を開発するなどの功績を残しました。しかし、戦争による疎開や工場の焼失を経て、戦後、宮崎で再出発を果たしました。 息子の秋山眞和氏は、染織業を引き継ぎ、宮崎で琉球織物の復興に尽力しました。1966年には宮崎独自の織物を目指し、恵まれた自然のある綾町で「綾の手紬」を創製しました。秋山眞和氏は、藍との対話を欠かさず、手機と一体となり、何時間も自分と糸と向き合い、日本の原産種の蚕「小石丸」の養蚕から、「藍染め」や「貝紫染め」などの天然染色、琉球由来の絣や花織を用いた織物づくりを手仕事で行い、最高の布を作り上げてきました。 秋山眞和氏の職人としての経験、知識、ひらめき、そして熱意から生まれる作品は、国内外で高く評価されています。彼は国による「現代の名工」指定を受け、黄綬褒章を受賞し、綾町指定重要無形文化財にも指定されています。さらに、ヨーロッパやアフリカなど海外でも彼の作品は高く評価されています。 秋山眞和氏は、日本近海に生息するアカニシ貝の内臓(パープル腺)から紫の色素を抽出し、独自の手法で「貝紫」による染色を成功させました。この「貝紫」は、かつて帝王や貴族の式服にしか使用されなかった「最も高貴な色」とされていましたが、東ローマ帝国の滅亡とともに途絶え、幻の色となっていました。秋山氏は藍の発酵からヒントを得て、貝紫を世界で初めて現代に復活させました。 貝紫は、染織職人にとって他の追随を許さない天然の染料であり、類まれな美しい色と優れた堅牢性を備えています。貝紫で染色する方法には、直接法と還元法の2つがあります。直接法では貝から分泌液を取り出して布につけ、太陽光など紫外線に当てて発色させます。一方、還元法は藍染めの発色原理と似ており、貝から取り出した分泌液を還元させ、布に染み込ませた後、空気に触れさせて酸化させて発色させます。この還元法は、綾の手紬主宰の秋山眞和氏が独自の技術で見つけ出したものであり、天然藍の全てを極めたからこそ可能となった染色法です。 さらに、秋山眞和氏は日本古来の蚕「小石丸」の養蚕にも取り組んでいます。この「小石丸」は、最も細くて強く、艶のある糸を出すことから「幻の絹」と称されています。秋山氏は独自の座繰り機で「小石丸」から取り出した糸を30以上の手作業で織り上げ、贅沢な逸品を生み出しています。
- 浦野理一
浦野理一さんは、日本の染織研究家であり、昭和時代を代表する存在です。浦野理一さんは小津安二郎監督の映画で衣装の担当もしており、特に経節紬で知られています。浦野理一さんの織物は太めの節が特徴で、素朴ながらも存在感があります。 浦野理一さんは1901年に長野県で生まれ、小学生の頃から着物に興味を持ちました。東京の錦城商業学校を卒業後、日本橋白木屋(元東急百貨店日本橋店)で呉服部として働きました。その後、故郷の長野で蚕糸関係の家業に従事し、収集品を通じてきものや染織の歴史と技術を学びました。浮世絵の美しい柄に魅了され、喜多川歌麿や葛飾北斎の浮世絵を収集しました。 浦野のきものは「文人好み」と評され、鎌倉文化人やその妻たちに支持されていました。
- 龍村平蔵
龍村平蔵氏は日本の染織家であり、名前は累代にわたって襲名されています。初代から4代まで存在し、各人とも法隆寺や正倉院に伝わる古代裂など伝統的な織物の研究に尽力していました。 初代龍村平蔵氏は1876年に大阪で生まれ、幼少期から茶道、華道、謡、仕舞、俳諧など文芸美術に触れる環境で育ちました。特に俳諧の才能を発揮し、16歳の時に祖父が亡くなったことをきっかけに家業が傾き始めたため、彼は退学して西陣で呉服商の道に進みました。最初は販売に従事していましたが、次第に織物の技術研究に没頭しました。1894年に18歳で織元として独立し、商売も順調に拡大。30代の若さで「高浪織」や「纐纈(こうけち)織」など多くの特許を取得し、周囲に衝撃を与えました。
- 久保田一竹
初代久保田一竹さんは、辻が花染めの名手として知られています。初代久保田一竹さんは東京国立博物館で展示されていた室町時代の『辻が花染め』の小裂に感銘を受け、自らも制作したいと強く願いました。ただ復元するだけでなく、現代に調和した「一竹辻が花」を確立するために研究に没頭しました。 1962年、伝統的な辻が花を完璧に復元することは技術的に不可能であると判断した初代久保田一竹さんは、自分らしい「一竹辻が花」を目指しました。初代久保田一竹さんは練貫の代用品として縮緬の絹糸を使用し、草木染の代わりに化学染料を用いて納得のいくデザインを生み出しました。 「一竹辻が花」は大胆なデザインと華やかさが特徴です。色を重ねていく重ね染めや細やかな刺繍、厚みのある絞り染めの組み合わせにより、独創的で洗練されたデザインが生まれました。 生地にもこだわりがあり、「一竹辻が花特殊生地」という一竹工房別織の特殊三重織の高級生地が使用されています。この生地は特殊金通しを施しており、しなやかさと光沢を引き立てています。 「一竹辻が花」はフランス芸術文化勲章シュヴァリエ賞や文化庁長官賞など多くの賞を受賞しました。初代久保田一竹さんの名前を冠した「久保田一竹美術館」も建設され、国内外で個展が開催されています。彼の精神はご長男の悟嗣さんに引き継がれ、ニ代目久保田一竹として活動を続けています。
- 羽田登喜男
羽田登喜男氏は、日本を代表する手描き友禅作家であり、国内外で高い評価を受けています。1988年には人間国宝に認定されました。羽田登喜男氏の作品は「羽田友禅」とも呼ばれ、京友禅と加賀友禅を融合させた独自のデザインが特徴です。 京友禅はやわらかい色合いと華やかさがあり、刺繍や金銀箔などの装飾が多く使用されています。一方、加賀友禅は自然の風景を写実的に描くことが特徴で、京友禅とは対照的なデザインです。羽田登喜男氏は、この両者の要素を融合させ、「羽田友禅」を生み出しました。 羽田登喜男氏は1911年に石川県金沢市で生まれ、14歳のときには南野耕月氏から加賀友禅を学び、20歳のときには曲子光峰氏から京友禅を学びました。1937年に独立し、京都市上京区に自身の工房を構えました。彼の作品は一貫した作業で作られ、デザインから仕上げまでの約20~30工程を1人で行います。糸目糊や堰出し糊などの伝統的な技法を駆使して、緻密な作風を作り上げています。 特に「鴛鴦(おしどり)」の文様は、羽田登喜男氏を代表する人気の作品です。この文様を生み出すために、白揚げや金砂子といった加賀友禅の技法を用いています。2008年には97歳で天寿を全うされ、現在は長男の羽田登氏や孫の登喜氏によって作品が受け継がれ、作り続けられています。
- 新里玲子
宮古上布は、沖縄県宮古島で作られている織物で、日本を代表する麻織物の一種です。この美しい布は、伝統的な技法を用いて丁寧に作られています。 新里玲子さんは、宮古島で伝統を尊重しながらも、自身の個性を活かした上布作りに挑戦しています。新里玲子さんはキャビンアテンダントから転身し、試行錯誤を繰り返しながら「自分の感性を活かしたものづくり」を目指し、絣を手で括り、糸は草木で染め、織り上げる工程をすべて自身の工房で行っています。 宮古上布は、島で育つ苧麻を原料とした手績みによる糸作り、藍や植物染料による染め、締機や手括りによる絣括り、手織り、砧打ちなどの工程を経て作られます。その特徴は細い糸で織られる精緻な絣模様とロウを引いたような光沢のある滑らかな風合いです。宮古上布は通気性に富んでおり、丈夫で長持ちするため「三代物」とも呼ばれています。 特に、新里玲子さんの作品は、手積みの味わい豊かな糸使い、個性溢れるデザインとカラーリングが魅力的です。
- 新垣幸子
新垣幸子さんは、八重山上布の第一人者であり、沖縄県指定無形文化財技術保持者としても活躍しています。彼女は日本工芸会正会員でもあり、染織作家として注目を浴びています。 新垣さんは昭和20年(1945年)に熊本県で生まれ、その後沖縄県に移住しました。社会人経験を経て、石垣英富工房で八重山上布の捺染技術を学び、昭和43年(1973年)に自身の工房を開設しました。 彼女は石垣島の自然から採取した植物を用いて伝統的な手括り染めの技法で作品を制作しています。その作品は多彩な色使いと美しい彩色で魅了されるものばかりです。また、苧麻独特のひんやりとした手触りも心地よく、夏織物や上布などの装いを涼やかに引き締めてくれます。
- 平良敏子
平良敏子さんは、1921年に沖縄県国頭郡大宜味村喜如嘉で生まれました。平良敏子さんは芭蕉布の復興と発展に尽力し、その功績により人間国宝となりました。芭蕉布は沖縄を代表する糸芭蕉から作られた強く美しい織物で、喜如嘉では、戦後に復活した工芸に高めた女性たちが、23の工程で芭蕉布を生み出しています。 平良敏子さんは、倉敷で勤労隊として働いた後、帰郷の際に倉敷紡績の社長である大原総一郎氏と民藝運動のリーダーである外村吉之助氏から「沖縄の織物を守り育てて欲しい」との言葉をかけられました。彼女はこの思いを受け止め、芭蕉布と共に生き、技術を磨き、後継者育成に努めました。1974年には「喜如嘉の芭蕉布保存会」が国指定の重要無形文化財保持団体として認定され、2000年には平良敏子さん個人が重要無形文化財「芭蕉布」の保持者に認定され、人間国宝となりました。さらに、2002年には「勲四等宝冠章」が授与された方です。
- 玉那覇有公
玉那覇有公氏は、1936年に沖縄県石垣島で生まれました。学校を卒業後、石垣島の鉄工所で働いた後、那覇に出て鉄鋼関連の仕事を探しました。そこで、運命的な出会いがありました。紅型城間家14代の城間栄喜氏の一人娘である道子さんと出会ったのです。 道子さんは紅型復興に命をかけて取り組んだ栄喜氏の娘で、幼少期から父の指導を受け、紅型の基礎を学びました。結婚を機に、玉那覇氏は紅型の世界に飛び込むことになりました。 義父の栄喜氏は1942年に50枚の型紙を持って大阪に向かいましたが、沖縄戦が勃発し、妻子と離れ離れになりました。戦後、沖縄に戻った栄喜氏は、道子さんと共に50枚の型紙を元に紅型の復興を試みました。彼は紅型に対して妥協を許さない厳格な人物でした。 当初、玉那覇氏は紅型の世界に飛び込んできた未経験の若者でした。義父の工房では型紙を彫る技術者が不足していたため、玉那覇氏は昼間は工房の雑用をこなし、夜は型彫りの勉強に明け暮れました。やがて、義父から型紙彫りの許可を得て、紅型の制作に参加し始めました。 玉那覇氏は図案から型紙彫りを極め、すべての工程に精通し、義父から独立して自身の工房を構え、紅型作家として認められました。彼は公募展で実績を積み重ね、1996年には重要無形文化財「紅型」の保持者(人間国宝)に認定されました。 紅型は15世紀頃に琉球王朝のもとで生まれ、王族に愛用されました。戦後、城間栄喜氏によって紅型は復興されました。紅型作家たちは独自の意匠を用いて図案を作り、日本本土の植物をモチーフにした文様が多く見られます。紅型の命は型紙の精緻さにあると言われ、玉那覇有公氏はその技術を際立たせました。 彼の作品は花や葉の模様を丹念に手挿しで染め、濃淡の使い分けや暈しによって表情を変えています。半世紀以上にわたり磨き上げた紅型の技法は、今も高い評価を受けています。
- 宮平初子
首里織は、琉球王朝時代から伝わる沖縄の伝統的な織物であり、首里の城下町として栄えた場所で格式高い優雅な織物として昇華されています。この織物は女流階級の氏族の女性たちによって受け継がれ、家々で門外不出の織物として大切に守られていました。 特に宮平初子さんが制作したものは、琉球王朝時代の王妃や王女が夏用の衣類として着ていた「花倉織」です。花倉織は、トンボの羽やセミの抜け殻と表現されるほど生地が薄く透き通り、軽くて美しい着物です。 宮平初子さんは、1922年に沖縄県那覇市首里で生まれました。彼女の父は比嘉朝光さん、母は静子さんで、宮平初子さんは長女として育ちました。 1939年、宮平初子さんは16歳で沖縄県立女子工芸学校を卒業しました。この年、日本民芸協会の一行が沖縄の工芸調査のために訪れ、学校の推薦により柳宗悦館長に伴われて上京し、日本民芸館で研修を受けました。柳悦孝染織研究所では植物染色と紋織りの指導を受けました。 1969年には第43回国展国画賞を受賞し、その才能を証明しました。1970年には「宮平織物工房」を首里に開設し、首里織の技術継承と技術者の育成に尽力しました。1974年には沖縄県指定無形文化財「本場首里の織物」の保持者に認定され、後継者育成のために講習会などを開催しました。 そして、1998年には県内から3人目、女性初の重要無形文化財「首里の織物」の保持者(人間国宝)に認定され、宮平初子さんは誰もが認める偉大な織物作家としての名声を確立しました。 宮平初子さんの作品は、他に類を見ない色やデザインが特徴です。彼女は沖縄の自然から抽出した藍、赤、黄、緑などの色を大胆に使い、他の着物作品ではあまり見かけない組み合わせの色味を使ってグラデーションを織り込んでいます。また、幾何学模様を多く用いたエスニック調のデザインも特徴と言えます。 宮平初子さんは自身の感性を最大限に活かし、自由な発想で独創的な着物を次々と生み出しています。複数の模様が段違いに表現された彼女の作品は幅広い世代の着物愛好家の心を掴んで離しません。
- ルバースミヤヒラ・吟子
ルバース・ミヤヒラ・吟子さんは、1950年に沖縄県那覇市で生まれました。ルバース・ミヤヒラ・吟子さんは、首里織の七つの技法(首里花織、道屯織、花倉織、諸取切、手縞、煮綛芭蕉布、花織手巾)に精通した、首里織の重要無形文化財保持者(人間国宝)であり、宮平初子さんの長女として1950年に沖縄県那覇市で生まれました。母である宮平初子さんから織物の基礎を学び、染織の世界へ入り、首里織の技法を継承しました。彼女はフランスで織物の研究を行い、彼女は女子美術大学藝術学部を卒業し、宮平染織工房に入所しました。その後、フランスのゴブラン国立製作所で研修を受け、帰国後は宮平染織工房で独自の感性を作品に投影し、美しい色彩センスで新しい首里織を創作しました。 宮平初子さんから受け継いだ首里織の技術に、フランスの織物の研究で培ったエレガントで都会的な感性を融合させ、高雅な着物や帯を制作し、着物ファンを魅了し続けています。ルバース・ミヤヒラ・吟子さんは沖縄県立藝術大学で非常勤講師として教鞭を執り、国展会や国際服飾学会にも参加しました。1991年には沖縄県指定無形文化財「本場首里の織物」の技能保持者に認定され、後継者育成にも力を注ぎ、琉球染色の調査なども行っていました。 2018年12月に永眠されたルバース・ミヤヒラ・吟子さんは、稀少な作品を遺しています。
- 本郷孝文
本郷孝文さんは1944年に長野県松本市で生まれました。彼は民藝運動に関わっていた父親の影響を受け、「織を芸術」とみて育ちました。高校卒業後、大学進学とともに「映画映像の世界」に身を投じ、多感な10代から20代の初めまでを映像を通じてさまざまなものを捉えながら過ごし、感性を磨きました。25歳の時に実家に戻り、父親の手伝いから織の世界に入りました。 彼の父親は白生地から脱して先染めの縞や格子を織り始め、また有明地方の天蚕を着物地に織り込んだ最初の人であり、大の織物好きでした。柳宗悦氏の甥で染織界の大家であった柳悦博氏を師と仰ぎ、美への感じ方や見方、デザインなど口では表現できない“間”を作り出す感性を磨きました。 本郷さんはジャガードを使わない手織で常時20種類程の織物を作ることができます。彼は着物を実用と考え、着る人の身体に寄り添うしなやかな風合いを追求しています。糸の撚りや打ち込みの工夫によって、程良い張りと厚みを備えながらも驚くほど軽い、最高の糸使いで織り上げた素晴らしい着心地の織物を製作しています。彼の作品は、複雑な織技によって遺憾なく発揮されたお品であり、糸そのものの輝きが気品豊かな世界を生み出しています。
- 福田喜重
福田喜重さんは、1932年9月26日に京都市で生まれました。福田喜重さんは日本の刺繡家であり、刺繡の分野で唯一の人間国宝です。彼は京都市立第一工業学校(現在の京都市立京都工学院高等学校)を卒業し、父である刺繡家福田喜三郎氏から厳しい指導を受けて伝統的な技法を習得しました。 福田喜重さんの刺繡作品は主に和服に用いられ、一越縮緬や綸子地などの生地を使用しています。彼は自然物を流動的に表現し、微妙なグラデーションや細かい作業によって繊細で流れるような曲線を色糸で描いています。そのため、彼の作品は平坦ではなく、奥行きを感じさせる絵柄となっています。 1976年には日本工芸会日本伝統工芸展に初入選し、以降も受賞を重ねてきました。彼は刺繡業福田商店を父から引き継ぎ、1970年には福田工芸染繡研究所に社名変更し、1991年には株式会社福田喜を設立して代表取締役を務めました。 福田喜重さんは一枚の布に宿すために一切の妥協を許さず、生地の選択から意匠、染、縫、箔の全行程を一貫して手掛けています。彼の刺繡は一針一針で、一瞬一瞬の時を刺し込む美しさを持っています。 また、福田喜重さんが「水蒸気文化」と呼ぶ、湿気があるからこその霞や靄で朝焼けや夕焼けが楽しめる日本の景色。彼の独特の「染足の長い暈し」にはその情景と情緒が表現されています。
- 由水十久
由水十久は、加賀友禅の巨匠であり、その作品は世界的に有名です。 初代由水十久は、幼少期から日本画を学び、京都で友禅作家に師事しました。その後、独立して加賀友禅作家として活躍し、伝統的な技法を用いつつ、人物画をモチーフにした作品を創りました。彼の作品は、海外でも個展を開くほど注目され、ユニセフのグリーティングカードにも採用されました。初代由水十久は、草花模様が中心の加賀友禅の中で、人物画を好み、特に童(わらべ)を題材に独特の図案で多くの人々を魅了しました。彼の作品は、絵画のように描かれた独特の文様で高く評価されています。 二代目由水十久は、初代の次男として生まれ、父から加賀友禅の技術を学びました。彼もまた伝統工芸士として認定され、人物画をモチーフにした作品を制作しています。唐子(中国の小さい子ども)のデザインは、髪の毛や服装、表情の細かい部分まで繊細に描かれ、リアリティある作品となっています。 親子代々受け継がれる傑作品として、由水十久の作品は今もなお称賛されています。
- 田畑喜八
田畑家は手描きの京友禅染匠として、約200年にわたる歴史を誇っています。初代の喜八氏は日本画を基にした独自の技法で京友禅に新たな風を吹き込み、昭和30年には三代目の喜八氏が重要無形文化財「友禅」の保持者であり、人間国宝に指定されました。 田畑家は京友禅の染屋として、「藍の濃淡・摺疋田・縫い箔」を得意としています。特に「茶屋辻染め」という作品は、独特の藍色の美しさが際立ち、伝統的な古典文様を個性的に演出しています。この作品は、江戸時代から大切に使われている「藍の墨棒」で加筆され、藍の濃淡を基調とした気品あふれる、格調高く、優雅でありながら芯に力強さのある着物を作り上げています。 また、京友禅の「差す」色の多彩さは世界的に類を見ないと言われており、「田畑家コレクション」という、田畑家が着物を作る際に使用する膨大な色の生地が貼られた見本帳が、田畑家の財産として受け継がれています。 田畑家は、初代喜八氏以降、田畑本家を継承する者が名乗り得る名門として、約200年にわたる歴史を誇っています。 初代の喜八氏は文政年間に日本画家を志し、京都で日本画を学びました。彼は染色業を創業し、主に御所や二条城を中心とした奥方や姫君の御衣料を承る誂染師として活躍しました。明治時代以降には「田畑」を名乗るようになりました。 二代目の喜八氏(幼名:貴松)は鈴木松年に弟子入りし、日本画の勉強から始めました。彼は初代の染屋を継ぎました。 三代目の喜八氏は人間国宝に指定され、その後四代目、そして現在の五代目の喜八氏に引き継がれています。三代目は絵画的で写実的な表現を得意とし、五代目は着物のサイズを生かしたダイナミックな友禅の構図と色数が少ないという作風を持っています。 田畑家の始まりは、滋賀県高島郡出身の初代喜八氏が文化文政時代に絵描きになりたいと一念発起し、京都で日本画を望月玉泉と鈴木百年に学んで日本画家を志して上京し、1825年に小川通りに染屋を開いたことにさかのぼります。 京都は美しい水に恵まれており、茶道や清らかな水を使う染物や織物が発展しました。また、この場所は徳川将軍家を中心とした二条城や天皇を中心とした御所があり、奥方や姫君の御衣料を受け賜わり、誂染師として活躍していたことが染屋や織屋の成長に寄与しました。 二代目の喜八氏は鈴木松年さんに師事し、日本画の勉強から始めました。この頃、公家や元武家から「姫の嫁入り道具に着物を」と依頼を受けたことが田畑家コレクションの始まりとなりました。 三代目の喜八氏は幸野楳嶺さんに師事し、絵描きの道を目指しました。しかし、父親の二代目喜八氏が亡くなったことで染の世界に入り、古代衣裳の蒐集に力を注ぎました。これが「田畑家コレクション」を形成し、現在では数百点以上の貴重な染物が残っています。 四代目の喜八氏は芝居好きであり、大学生時代には劇団を主宰していましたが、父の姿を見て家業を継ぎ、田畑家コレクションを引き継ぎました。 父である四代喜八氏に厳しく指導されたのが現五代喜八氏、本名は田畑禎彦さんです。1935年に京都で生まれ、3人兄弟の長男として育ちました。小学生時代には集団疎開を経験し、中学生時代には武道を学び、嵯峨野高校に進学し柔道部の主将を務め、生徒会長も務めました。 高校卒業後、京都から飛び出し、早稲田大学第一文学部美術専修に進学。東京でさまざまな出会いと職種を経験しました。卒業後は京都に戻り、京都市立美術大学日本画科に進学し、日本画を描くための勉強を徹底的に行いました。父の下で写生の実習を重ね、1995年に「五代田畑喜八」を襲名しました。 五代目の田畑喜八氏は、「華主」として一番美しく輝く着物を作ることを仕事とし、藍の濃淡を基調とした気品あふれる格調高い着物を作り上げています。
- 城間栄順
城間栄順さんは、日本工芸会の正会員であり、琉球王朝時代から続く紅型の三大宗家のひとつである城間家の15代目です。現在はご子息の16代城間栄市さんとともに、城間紅型工房を営んでいます。 戦後の混乱の中で、紅型の復興に尽力した城間栄喜氏の長男として生まれた城間栄順さんは、父から伝授された城間家の伝統技術を継承しつつ、色にこだわった独自の世界観を作品に表現しています。城間栄順さんは海と魚、自然を深く愛し、美しい沖縄の海をモチーフにした作品を多数制作しています。その精緻な手仕事は妥協を許さず、作品全体には大自然のおおらかさとあたたかさが感じられます。 城間栄順さんの作品は、美しさと力強さを兼ね備え、沖縄の豊かな自然と伝統技術が融合した素晴らしいものです。
- 佐々木苑子
佐々木苑子さんは、東京都杉並区に工房を構える染織家であり、日本の現代着物作家の中でも特筆すべき存在です。佐々木苑子さんは「紬織」の技法を駆使して、魅力的な着物を生み出しており、その才能は人間国宝に認定されています。 1939年に東京で生まれた佐々木苑子さんは、20代半ばから染織の道に進み、静岡県の手織り紬工房で平織り、縞、格子の技術を学びました。1969年には自宅に織物工房を設立し、1971年には紬織の作品で伝統工芸新作展に初入選しました。その後、絵絣と絣の研究に専念し、鳥取県の弓浜絣や島根県の広瀬絣から学んだ技術を活かして、鳥や花、星や月などの自然のモチーフを絵絣に表現しました。佐々木苑子さんの作品は、植物染料で染めた紬糸を用いて繊細で華麗な絵絣を作り上げ、伝統的な直線的な絣文様に加えて詩情に満ちたデザインを取り入れています。佐々木苑子さんは伝統的な技法を守りつつ、オリジナリティを追求し、前衛的な作品を生み出しています。 その後も、強靱で艶のある絹糸を用いた絵絣や紋織の着物を日本伝統工芸展を中心に発表し続け、その技術と芸術性が高く評価されました。佐々木苑子さんは1975年に日本工芸会総裁賞、2001年に東京都知事賞、2002年に紫綬褒章、2003年に日本伝統工芸展第50回展記念賞などを受賞しました。そして2005年には「紬織」で2人目の重要無形文化財保持者・人間国宝に認定され、現在も制作や後進の指導、普及活動に尽力しています。
- 由水煌人
由水煌人さんは、日本工芸会の正会員であり、加賀友禅伝統工芸士です。由水煌人さんは初代由水十久氏の長男として生まれ、京友禅の人間国宝である森口華弘氏に師事しました。昭和52年から「日本伝統工芸展」をはじめとする数々の受賞歴を重ねています。 由水煌人さんが大切にしているのは、女性のしぐさに秘められた着姿の美しさと、作品の中の絵柄が創り出す空間へのこだわりです。鋭い感性と観察力を持ち、茶道や日本舞踊などにも通じており、常に独自の友禅を作るという永遠のテーマに取り組んでいます。 昭和34年: 石川県立工業高等学校図案科を卒業。 同じ年に、友禅の修業のために森口華弘先生に入門。 昭和46年~48年: 母校の石川県立工業高等学校で染色デザイン講師を務める。 昭和52年: 第24回伝統工芸展で友禅訪問着「花水木文様」で初入選。 平成6年9月: 日本工芸会正会員として認定される。 平成7年2月: 伝統工芸士(加賀友禅手描)として認定される。 平成11年3月: 石川県指定無形文化財加賀友禅技術保存会の会員として認定される。 平成23年3月: 日本工芸会を退会。 師匠は森口華弘先生です。
- 木村雨山
木村雨山さんは、大正から昭和にかけて活躍した加賀友禅の染織家・着物作家でした。 木村雨山さんは本名を木村文二といい、1891年に石川県の金沢市で生まれました。金沢市は絹織物の生産が盛んな土地であり、身近な草木や花による染色の美しさに惹かれ、染色の道を志すようになりました。 高等小学校卒業後、当時加賀染めの名工として名高かった上村雲嶂(うえむらうんしょう)に加賀友禅を、南画家の大西金陽に日本画を学び、その後1923年に友禅作家として独立しました。 「雨山」という号は、師事していた上村雲嶂に由来しており、「雲」の漢字から「雨」を、「嶂」の漢字から「山」をそれぞれ取っていると言われています。 1955年には友禅の部で重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定されました。友禅で人間国宝に認定された作家は田畑喜八氏や森口華弘氏など他にもいますが、加賀友禅では木村雨山さんただ一人です。 その後も1965年には紫綬褒章を、1976年には勲三等瑞宝賞を受賞するなど、目覚ましい活躍を続け、1977年に86歳でその生涯に幕を閉じました。 木村雨山さんは加賀友禅の美しさに心を打たれ、日本画的な表現を取り入れた彼独自の技法を生かして、数多くの作品を生み出しました。その作品は唯一無二のものと言えます。
- 小宮康孝
小宮康孝さんは1925年11月12日に東京・浅草で生まれました。小宮康孝さんの父、康助さんは江戸小紋の初代重要無形文化財保持者(人間国宝)でした。小学校を卒業した後、小宮康孝さんは父のもとで厳しい修行を始めました。 1942年に関東工科学校電機科に入学しました。昼は江戸小紋の板場で働き、夜は学業に励んでいました。1950年には使用していた合成染料をさらに質の高いものに切り替え始め、1952年には父が「助成の措置を講ずべき無形文化財」として選定されました。この選定の際に「江戸小紋」という言葉が生まれました。 3年後、江戸小紋の重要無形文化財保持者として認定された父のもとで研鑽を積みました。1960年には第7回日本伝統工芸展で「江戸小紋 蔦」が初入選し、以後、毎年出品するようになりました。1961年には父康助氏が亡くなり、1964年には第11回日本伝統工芸展で「江戸小紋着物 十絣」が奨励賞を受賞しました。 1960年代後半からは和紙製作者と協力して型地紙の改良を始め、「よい型彫師がいなければ、江戸小紋は滅びる運命だ」という父の言葉を胸に、型彫師の喜田寅蔵(1894-1977)などと連携しました。1978年には父に続いて江戸小紋の重要無形文化財保持者に認定されましたが、認定後も江戸小紋の制作と普及に尽力しました。1985年には東京都文化賞、1988年には紫綬褒章を受章しています。 康孝氏は戦後の混乱を乗り越え、父から受け継いだ江戸小紋の技術を発展させ、我が国を代表する染色家となりました。2018年には息子の康正氏も江戸小紋の分野で重要無形文化財保持者に認定され、孫も江戸小紋の仕事を手掛けており、江戸小紋の技術は脈々と受け継がれています。 後継者の育成にも熱心であり、日本の着物のさらなる発展に寄与した功績もあります。
- 甲田綏郎
甲田綏郎さんは「精好仙台平」という重要無形文化財の技術保持者です。仙台平は宮城県仙台市の合資会社仙台平が製造する高級絹織物で、草木染めで糸を染色し、光沢のある練り糸を経糸に使用し、撚りのない生糸を緯糸に使って力強く打ち込むことで、しなやかさと堅さを兼ね備えた織物です。袴を着用する場面で、座った際にはしなやかで、立った際にはひだの織り目が自然に落ち着いて、堂々とした美しい姿勢を保ちます。甲田綏郎さんは平成14年に重要無形文化財技術保持者に認定され、お父様の栄佑さんも同様に重要無形文化財技術保持者であられました。
- 甲田栄佑
甲田栄佑さんは、日本の染織家であり、重要無形文化財「精好仙台平」の保持者でした。 甲田栄佑さんは、父の甲田陸三郎や名人とされた佐山万次郎から仙台平の技法を学び、その後、無撚先染織という特殊な技法を考案しました。彼は仙台藩伊達家の御用織物として知られる袴地の精好仙台平を生み出しました。 精好仙台平は、柔らかさと堅さの相反する特性を絶妙に組み合わせ、絹の極上な風合いを実現しています。この織物は練り糸と無撚の生糸を濡らして打ち込む技法によって作られ、座った際には優雅に膨らみ、立った際にはさらりと落ちる特性を持っています。 甲田栄佑さんは仙台織物協会連合会長に就任し、昭和31年に重要無形文化財「精好仙台平」の保持者として人間国宝に認定されました。彼は宮城県出身で、八王子織染工業学校を卒業しています。
- 藤山千春
藤山千春さんは、江戸時代に生まれた「吉野間道」を、現代の街並みに似合うセンスで織り続けています。「吉野間道」とは、寛永の三大名妓である吉野太夫に、京の豪商である灰屋紹益が贈ったと言われる名物裂の一種であり、南蛮渡来の縞織物です。平織の上に地厚な吉野格子を浮き縞として織り出したもので、かの名茶人である松平不昧も好んだ織物です。 柳悦孝氏(柳宗悦氏の甥)らが吉野間道を復元し、藤山千春さんは悦孝氏の一番弟子として師事し、吉野間道を作り続けています。この織物は指で触れると独特の存在感があり、やわらかな浮織の畝が光を受けて浮かんだり、おさまったりします。その表情の豊かさは工芸的な美しさを楽しむことができます。
- 藍田春吉
藍田春吉さんは、日本の染織家であり、江戸小紋の代表的な染師でした。藍田春吉さんは日本工芸会の正会員でもあります。同じく日本工芸会正会員である藍田正雄さんのお父様でもあります。 江戸小紋は、江戸時代から伝わる「型染」という技法を用いた染め物のことを指します。特徴は、遠目で見ると無地にも見えるほど細かい文様を染めることです。江戸小紋は、特に精緻で細密な型紙を使った小紋で、柄が細かいほど職人の高度な技術が必要となり、格も高くなります。 江戸小紋は、日本の伝統的な文化と美意識を感じることができる着物です。
- 藍田正雄
藍田正雄さんは、昭和15年に茨城県で生まれ、昭和18年に高崎市に移り住み、小学生の頃から父である春吉さん(三代目)の指導を受けて育ちました。十七歳の頃には職人として認められ、その後、埼玉や東京の工房で修行を積みました。昭和41年に高崎に戻り、父と一緒に仕事をするようになり、昭和52年に工房を現在の群馬に移しました。 藍田正雄さんは江戸小紋染めの技術で高く評価されています。日本伝統工芸染織展では文化庁長官賞や日本経済新聞社賞を受賞し、伝統工芸新作展では朝日新聞社を受賞しています。また、後継者の養成にも力を注いでいます。 平成10年には天皇皇后両陛下に日本絹の里で江戸小紋の実演を行い、平成11年には群馬県指定重要無形文化財保持者に認定されました。その後も群馬県功労賞表彰や伊勢型紙保存会育成保護、江戸小紋育成保護など、多くの賞を受賞しています。さらに、伝統文化ポーラ賞も受賞しています。 藍田正雄さんは江戸小紋の第一人者として、自身の作品制作と同時に後継者育成にも尽力されました。彼の手による江戸小紋は、細かい文様が遠目には無地のように見えるほど緻密で美しいものです。江戸時代には武士の裃として着用され、後に町人にも広まり、さまざまな文様が生み出されました。 藍田染工では、先代である藍田正雄さんから受け継いだ技術と貴重な伊勢型紙を用いて、全ての工程を手作業で行っています。
- 添田敏子
福岡県春日市に工房を構え、ひたむきに生きる四季の草花の命を見つめて、型絵染めの作品に精巧かつ優美に表現される、釜我敏子さん。型絵染の技法を使って自然の中にある草花をモチーフに、女性らしく優しさのあふれる、そしてハイセンスで美しい作品を数多く世に出され、高い人気を誇る型染染織工芸作家です。 1938年、福岡県に生まれ、福岡高校卒業後、30歳の頃に木版摺更紗の故・鈴田照次先生の作品に出会い、型絵染めの基礎を学ばれた後に独学で技術を高められ、さらに長板中形の松原四兄弟の元で糊置きの技術を研鑽されました。 お母様の後押しもあって、仕事場を作り、作品作りに励み、1976年に第23回日本伝統工芸展に初出展し、見事入選を果たされました。1979年第26回工芸展に出展した「からす麦」で、結果5年連続入選を果たし、日本工芸会正会員に認定されました。 作家活動を始められてからは、型作りから染めまでの全ての工程を一人で取り組まれています。 「忘れな草」「あざみ」「風船かずら」「水仙」「なでしこ」「すいかずら」など、切り花として売られる花ではなく、地に根を生やし、環境に順応しつつ、つつましく、でも自分を失わず、雑草の合間にも逞しく凛と咲く野の花を描かれています。その花の存在感と生命力の輝きを見て、自分が感動した自然の中で咲くタンポポやハマエンドウなどの野の花を、意匠化して、着物や帯という限られた空間の中に息づかせ、野の花が生きた証を丁寧に細かく彫り込み、野の花がそこに息づいているかのようにデザインされ、彫り込まれ、染め上げられた着物や帯は、釜我さんの手を通して、また新たな生命を注ぎ込まれ、活き活きと着物や帯に生まれ変わります。 どんな小さな草花でも瞬間、瞬間に命の輝きが見え、その光が自分の心に飛び込んで来た時、心が突き動かされた時に初めて物づくりをすることを鉄則とすることで、作った着物を見ているとその年に自分になにがあり、どのように生きたかが見えてくるといいます。 決して妥協で物を作ることはなく、型作りから染めまで一人でやり遂げる。 和紙を貼り合わせた渋紙に独自の世界観をあらわした模様を彫り、布地という限られた空間に防染糊を置き、染料を使って染める「型絵染」。 型絵染は、デッサンから型紙制作のためのデザイン、型彫り、糊置き、染めといった複雑な工程をひとりで行います。 お気に入りの野の花を見つけ、デザインの基礎となるスケッチを描き、図案は墨絵で描くことで、型の美しさを出すことに注力しています。 さらに、全体の色の配色を決めた後、それを個別に細分化し、型紙の置き方と一緒に個々の色を決めていくという工程を経て、釜我さん独自の野の花の生命力を表現している型絵染の世界が築き上げられます。 草花を丹念に図案化し、柔らかな階調の色彩で染め上げた作品は優雅で格調高いものになります。 不自由に感じるこの世界で作り上げる一連の作品には、小さな野の花がひたすら懸命に生き続ける姿が描かれ、その命の尊さや趣があります。 染色家の美しい感性によってデザインされた草花の図案に染め描き尽くされた作品、それは、まるで染色家が眼にしたその時の心象風景が、そのまま作品に表現されているかのように感じます。 1970年西部伝統工芸展に初出品で入選し、奨励賞受賞されました。1976年に日本伝統工芸展に入選し、1979年日本工芸会の正会員に認定されました。1994年には東京国立近代美術館「現代の型染展」で日本を代表する25人に選出され、2007年に日本工芸会奨励賞、2012年朝日新聞社賞を受賞、さらに東京国立近代美術館や大英博物館、九州国立博物館などが主催する展覧会へ出品し、2011年に福岡アジア美術館で個展「釜我敏子の世界展」を開催、2014年には福岡県文化賞(創作部門)を受賞するなど、多数の受賞歴があります。 このほか、九州産業大学芸術学部や香蘭女子短期大学などで講師、日本工芸会西部支部の常任理事などの役職を長年務められ、現在は公益法人福岡県美術協会理事となり、型染だけではなく地元の博多織などの研究も進め、長年型染めの指導にも励み、門下から多くの作家を生みだしておられます。
- 喜多川俵二
喜多川俵二さんは、俵屋・喜多川家の18代目を継承し、1999年には父である平朗さんに次いで親子二代で「有職織物」の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。有職織物は、古代中国から伝わった織物が平安時代になって日本人好みに和様化され、平安の公家たちが宮廷の儀式や日常の服飾に用いた日本独特の織物です。喜多川家は歴代の皇室の即位式やご成婚の装束を製織し、また伊勢神宮において20年ごとに行われる式年遷宮の御料織物の製織も代々担っており、その美しさは悠久で気品に満ちています。
- 小倉淳史
小倉淳史さんは、日本の染織史において、最初の多色模様の染物である「辻が花」を現代に蘇らせた染色作家です。小倉家は、京都三大染工房の一つであり、130年以上の歴史を持つ家柄です。初代の小倉萬次郎氏は、明治大正時代の友禅界を代表する一人として活躍しました。その後、小倉淳史さんの父である建亮氏は、友禅を学び、四代目となりました。しかし、建亮氏はそれに飽き足らず、独自の作風を追求し、絞りの技術を学び、「絞りの小倉」や「辻が花の建亮」として名を馳せました。 小倉淳史氏は、建亮氏の長男として生まれ、子供の頃から着物や筆、染料のある生活を体験し、14歳で最初の染色作品を制作しました。その後、重要文化財を含む染織文化財の復元や修理に携わり、日本伝統工芸展で高い評価を受けています。室町時代の絞り染から現代の染色作品まで、幅広い知識と技術を持つ、日本で唯一の染色作家となりました。 小倉淳史氏は、「明日は今日よりもさらにいいものを作ろう」という信念で物づくりを続けています。彼の作品は着る人の知性を引き出し、気品を加え、華やかさと女性らしさを生み出します。
- 小倉建亮
小倉建亮さんは、京都三大染工房の一つである「小倉家」に生まれ、染織の歴史を紡いできました。初代小倉萬治郎氏の工房で丁稚奉公として働き、14歳のときに初めて染織作品を制作し、「天才的」と称される絵の技術で注目されました。その才能により、20人近くの弟子の中から指導者として選ばれました。 その後、養子となり四代目を継ぎ、大正から昭和初期にかけて、人間国宝である稲垣稔次郎氏の指導を受けながら、江戸時代に蒐集された資料をもとに友禅染めだけでなく、絞り染めなどの新しい染の作品を制作しました。特に、「辻が花」と呼ばれる幻の染めを現代に蘇らせたことで名を馳せました。小倉建亮さんは友禅と絞りの技法を組み合わせた着物を手掛け、新たな作風を打ち出しました。 亡くなった後も、息子の淳史さんやお弟子さんたちが彼の遺志を受け継ぎ、活躍しています。正統派の辻が花の作家さんの多くは、小倉建亮さんに師事した方々です。
- 福村廣利
「絵絞庵」は、京都・洛北の比叡山を望む場所にある福村廣利氏(日本工芸会正会員)と健氏(日本工芸会準会員)の父子工房です。福村廣利氏はかつて故・小倉建亮氏に一番弟子として師事し、10年後に独立しました。この工房では、辻が花の技術を活かした絞り染めの着物、帯、小物などを制作・販売しています。豊かな自然と清冽な水脈に恵まれた地で、下絵から染め上がりまでの全ての工程で丁寧な仕事を心がけ、先人の技術を現代に蘇らせています。 絵絞庵の作品は、ちょっとしたお出かけや観劇、茶席に映えるおしゃれで品のある着物から、格の高い訪問着、留袖まで幅広く制作されています。塩瀬や紬、縮緬などの生地に、古典的な「辻が花」や様々な花、動物などを絵絞りの技で表現したこだわりの作品を提供しています。 また、福村廣利氏の受賞歴には、第29回日本伝統工芸近畿展や第34回日本伝統工芸近畿展などが含まれています。
- 中町博志
中町博志氏は1943年に富山県で生まれ、その後加賀友禅の世界で名を馳せました。彼は加賀友禅作家の直江良三の元で修行し、そのノウハウを徹底的に学びました。6年の修行を経て、1972年に独立しました。彼の作品は大胆で華麗な色使い、抽象的な構図が特徴で、他にはない個性を放っています。中町博志氏は石川県指定無形文化財である加賀友禅技術保存会の会員でもあり、その名は本加賀友禅界で一、二を争うほどです。 中町博志氏の作風は伝統に縛られず、自由にデザインを施しています。加賀友禅は写実的な草花模様が特徴ですが、氏の作品は常に着る人をイメージしながら、目の前の風景を抽象的に描いています。中町博志氏は現代的な感覚を伝統的な加賀友禅の技法と意匠に取り込み、新たな着物の世界観を生み出しています。 中町博志氏は一枚の着物の柄にストーリーを込め、着る人がどのように見えるかを考えています。彼の豊かな感性で自然をとらえ、絹布の上に表現する力は絵画の粋に達しています。中町博志氏の作品は精緻な意匠美と加賀友禅独特の色彩美で見るものを圧倒します。 昭和18年:富山県福光で生まれる 昭和41年:加賀友禅師・直江良三氏に弟子入り 昭和47年:加賀友禅師として独立 昭和54年:第1回伝統加賀友禅工芸展で銅賞を受賞 昭和55年:第2回伝統加賀友禅工芸展で金賞を受賞 昭和56年:第3回伝統加賀友禅工芸展で金賞を受賞 昭和58年:第5回伝統加賀友禅工芸展で金賞を受賞 昭和63年:石川県指定無形文化財・加賀友禅技術保持者に認定 平成07年:加賀友禅伝統工芸師認定(通商産業大臣認定) 平成10年:金沢市文化活動賞受賞 平成25年:石川県指定無形文化財・加賀友禅技術保存会会長 現在:(協)加賀染振興協会理事 彼の師匠は直江良三氏です。
- 菊池洋守
菊池洋守さんは、東京都八丈島に工房を構え、「八丈織」を手掛けた染織作家です。菊池洋守さんは独自の感性と卓越した織技で黄八丈に新たな世界を切り開きました。1940年に東京都八丈島で生まれ、中学卒業後、染織家の故・柳悦博氏に師事し、内弟子として7年間の修業を積んだ後、1962年に独立し、故郷の八丈島に工房を開設しました。悦博氏の縁から白洲正子氏とも交流があり、白洲さんの店「こうげい」でも彼の作品が取り扱われ、白洲氏ご自身も好んで菊池洋守さんの作品をお召しになっていたことが知られています。 八丈織は、綾織特有の文様が生地に淡く浮かび、品良い光の陰影が極上の美しさを見せます。菊池洋守さんの手がける「八丈織」は、黄八丈の伝統的な織技法(綾織)をベースに、すっきりとしたシンプルな配色が中心で、現代の街並みに馴染み、着る方を引き立てる色と織、非常に軽やかな風合いとなっています。菊池洋守さんの作品は、シンプルな色無地でも「八丈織」ならではの上質な艶と光沢感が美しい華やぎをもたらします。また、コブナグサ・タブノキ・椎と泥染めによる三色からなる黄八丈とは異なり、菊池さんの織りは洗練された淡彩やシックなニュアンスカラーが美しく、従来の黄八丈にはない色を出すことができます。 精緻な綾織や吉野織によって表現された陰影豊かな景色は、絹糸の光沢が最大限に活かされており、他の紬織とは一線を画すエレガントな上質感となります。
- 釜我敏子
釜我敏子さんは、福岡県春日市に工房を構え、四季の草花の命をひたむきに見つめ、型絵染めの作品に精巧かつ優美に表現されています。型絵染の技法を駆使して、自然の中にある草花をモチーフに、女性らしさと優しさを兼ね備えた美しい作品を数多く世に出しており、高い人気を誇る型染染織工芸作家です。 釜我敏子さんは1970年に西部伝統工芸展に初出品し、奨励賞を受賞されました。その後、日本伝統工芸展や日本工芸会の正会員に認定され、さらに東京国立近代美術館の「現代の型染展」で日本を代表する25人に選出されるなど、多くの受賞歴を持っています。釜我敏子さんは型絵染だけでなく、地元の博多織なども研究し、門下から多くの作家を育てています。 型絵染は、デッサンから型紙制作、型彫り、糊置き、染めといった複雑な工程を一人で行う技法です。釜我さんはお気に入りの野の花を丹念に図案化し、柔らかな階調の色彩で染め上げた作品を生み出しています。その美しい感性によってデザインされた草花の図案に染め描き尽くされた作品は、優雅で格調高いものとなっています。 釜我敏子さんの型絵染の世界は、自然の息吹をまとう美しさと深い慈愛に満ちています。彼女の作品を通じて、小さな野の花が命を懸命に生き続ける姿やその尊さが伝わってきます。
- 知念貞男
知念貞男さんは琉球紅型の伝統を守り、その技法を継承している重要な人物です。知念貞男さんは琉球王国士族であり、紅型三宗家の一つである知念家の八代目当主です。知念家は、城間家や沢岻家と並ぶ紅型の名家で、彼らは古典柄を得意としています。 1972年に知念紅型研究所を設立し、その後も沖展で入賞し、文化庁長官賞や伝統文化ポーラ賞などを受賞してきました。また、日本工芸会の正会員としても高く評価されています。知念貞男さんは、琉球紅型の伝統を守りながら、美しい作品を制作し続けている素晴らしい作家です。
- 与那嶺貞
与那嶺貞氏は1909年に沖縄県読谷村で生まれ、染織と着物作家として活躍しました。与那嶺貞氏は首里女子実業学校で染織技術を学び、その後読谷に戻りながら女子補修学校の教師として働きながら織物の制作を続けました。1964年、村の生活改良普及員として勤務していた際、村長から依頼を受け、ほとんど途絶えかかっていた「読谷山花織」の復元に取り組みました。 「読谷山花織」は琉球王朝時代に栄え、琉球王朝の御用布として織り継がれていましたが、明治期の激しい時代の変化に伴い衰退し、戦争をはさんで一時的に途絶えていました。与那嶺貞氏は昭和30年代に周囲からの熱い希望に応え、土地の古老から聞き取り調査を行い、わずかに残っていた祭り衣裳などを手がかりに、試行錯誤と熱心な研究を重ね、ついに「読谷山花織」の技法と文様を復元しました。与那嶺貞氏は糸や道具類の調達から高機の改良にも努め、伝統的な読谷山花織の技法を高度に体得しました。さらに木綿地だけでなく、絹地による制作技法の改良にも大きく貢献しました。 彼女は地域の産業として「読谷山花織」が二度と途絶えないように後継者の育成や普及にも尽力し、1975年に沖縄県指定無形文化財「読谷山花織」の保持者に認定され、1999年には重要無形文化財「読谷山花織」の保持者として認定されました。 「読谷山花織」は花が咲いたような美しい表現を織で実現し、沖縄の染織品の中でも印象的です。与那嶺貞氏は伝統を守りつつも現代的な感覚を盛り込んだ作風で多くの着物ファンを魅了し続けています。 1909年: 沖縄県読谷村に生まれる 1964年: 花織の復興・研究・制作に取り組む 1975年: 沖縄県指定無形文化財保持者「読谷山花織」認定 1977年: 第24回日本伝統工芸展初入選 1979年: 第14回西部工芸展 朝日新聞社金賞受賞 1982年: 勲六等
- 築城則子
築城則子さんは、小倉織の世界で美しさと粋を追求されている染織家です。築城則子さんは独学で小倉織を復元し、現在は「築城則子さんの小倉縞」として人気を博しています。小倉織は江戸時代の豊前小倉藩(現在の福岡県北九州市)で人気を集めた、縦縞の柄が特徴の丈夫な木綿の織物です。築城さんは1983年に一枚の裂地と出会い、その縞模様と絹のような光沢感に魅了されました。研究と努力の末、1984年に小倉織の復元に成功されました。築城さんは透明感ある色を草木染めで染め、布に織りだされた縞模様は美しい音色を奏でています。築城則子さんの作品は、見事な色彩感覚によって美しい生命力を宿し、その躍動感ある縞は、使い手を非日常の世界へと誘います。
- 柳崇
柳崇氏は、染織作家として、糸と天然染料への徹底的なこだわりを持ち、美しいきものを制作されています。柳崇氏は民藝運動の中心人物である柳宗悦氏の甥であり、染織家の柳悦博氏の長男として生まれました。 柳崇氏は国産の絹を厳選し、撚糸、精練、糸染め、そして織り上げる工程まで全てを自ら手掛けています。柳崇氏の作品は、手織りの印象を大きく左右する糸の光沢と力強さを感じさせます。特に草木染めでつくられた糸は、柳崇氏にしか出せない端正で華やかな艶を持っています。 柳崇氏のきものは、ふっくらと空気をはらんで軽く、身に纏うとしっくりと身体に馴染みます。父である柳悦博氏から受け継いだ真摯な作品への姿勢と、常に妥協のない納得のゆく作品を求める理念のもとに制作されています。
- 山下めゆ
山下めゆさんは、本場黄八丈の伝統工芸を守り続ける染色家であり、その作品は美しさと繊細さで称賛されており、代々続く山下家の初代作家として絶大な人気を誇っています。山下めゆさんの作風は、時代的な背景を反映して、素朴な縞や格子の作品が多く見られます。晩年にはさらに華やかな要素が加わりました。第二次世界大戦の終戦後、洋装が主流になり、政府から化学染料の使用を推奨する通達が出ましたが、山下めゆさんは祖父と同様に草木染めを守りました。山下家はその伝統的な技法を変えずに守り続け、1984年に山下めゆさんが人間国宝に認定されました。
- 山下八百子
山下八百子さんは、東京・八丈島の伝統工芸品である本場黄八丈の伝統と技術を守り続けた染織作家です。山下八百子さんは1986年に東京都指定無形文化財工芸技術の保持者に認定され、2002年には名誉都民表彰を受けられました。 本場黄八丈は八丈島で受け継がれてきた草木染の絹織物であり、1977年に国の伝統工芸品に指定されています。山下八百子さんは、八丈刈安(はちじょうかりやす)という植物を使って独特な黄色を染め上げ、その美しい色から「黄八丈」と呼ばれています。 本場黄八丈の色は、刈安、椎、マダミという植物から得る三色で構成されています。山下八百子さんは伝統を守りつつ、複雑な織技を駆使して美しい中間色を表現しています。彼女の黄八丈は一般的な黄色の概念から少し離れたモダンで洗練された雰囲気を持ち、晴れやかさを感じさせるドレッシーな印象を与えます。 山下家は黄八丈の織り元として昔ながらの方法を守り続けてきました。先代の山下めゆさんの時代から高い評価を受けていましたが、山下八百子さんの代になり、伝統に一段と大きな足跡を遺しました。
- 山下芙美子
山下芙美子さんは日本工芸会正会員で、めゆ工房の山下家三代に渡る伝統的な染織技術を受け継いでいます。彼女は至高の染織である本場黄八丈を生み出しています。 黄八丈は3種類の草木と多彩な織技法を巧みに操り、洗練された絹布を作り出します。新小石丸を用いたエレガントで気品漂う着姿は、まさに唯一無二の存在感を放っています。 この黄八丈には目を鮮やかな黄金に輝く山吹色、どこか懐かしさを感じさせる茶褐色の鳶色、漆黒の艶と気品を放つ黒色があります。その独特の糸の輝きと艶で、着る人を魅了します。 東京生まれの黄八丈は1948年に東京都の無形文化財に指定され、八丈島で代々黄八丈を織る山下家の四代目となる山下芙美子さんは、伝統を受け継ぎながらも現代の街並みに合う洗練された黄八丈を作り出しています。 確かな織の技術の上に奥深い色彩が重ねられ、絹糸がさらに命を持って存在しているかのような織模様のモダンさと気高い質感が特徴です。
- 柚木沙弥郎
柚木沙弥郎さんは、1922年に東京で生まれました。柚木沙弥郎さんは女子美術大学の名誉教授であり、洋画家の父を持っています。東京大学で美術史を学びましたが、戦争の影響で勉学が中断されました。戦後、父の郷里である岡山県の倉敷にある大原美術館で働きました。そこで民藝運動を牽引する柳宗悦らと親交を深め、その後、芹沢銈介に師事し、型染めの技術を磨きました。 柚木沙弥郎さんは、布への型染めだけでなく、さまざまな版画やガラス絵などの作品にも挑戦し、絵本やポスターの制作、装丁、イラストレーションなど、幅広いジャンルで活躍しています。彼は1958年に型染め壁紙がベルギーのブリュッセル万国博覧会で銅賞を受賞し、1990年には第1回宮沢賢治賞を受賞しました。国内だけでなく、2008年からはパリで個展を開催しており、2015年にはフランス国立ギメ東洋美術館に多くの作品が収蔵されました。 柚木沙弥郎さんは型染の第一人者でありながら、近年では絵本や版画、お面や人形などの立体作品も発表しています。柚木沙弥郎さんの素朴で洗練された作品は、多くの人々に愛されています。
- 山岸幸一
山岸幸一さんは、1946年に米沢市で生まれました。山岸幸一さんは紬織りと草木染めの技術を駆使して、美しい織物を作り続けています。山岸幸一さんは、最上川の源流である米沢市赤崩に工房を構え、厳しい自然と向き合いながら、繭から糸を取り、草木を栽培し、染液を抽出し、織り上げるすべての工程を自身で手がけています。 山岸幸一さんの作品は、軽くてしなやかな織り物を目指しており、時間が経っても古くならない、いつまでも新しい織物を作り出しています。彼は、草木で染めた糸が最も美しくなる年を待ってから織り上げるため、作品の完成までに4年から5年もの歳月をかけています。 山岸幸一さんは、日本工芸会正会員であり、伝統工芸の新作展で多くの入選や受賞歴を持っています。彼の作品は、手仕事で丁寧に作られ、その美しさと逸品のクオリティは多くの人々に愛されています。 紬織・日本工芸会正会員山岸幸一氏。 1946年 米沢市生まれ 1973年 山崎青樹氏に師事 1975年 最上川源流 米沢市大字赤崩に工房開設 1980年 伝統工芸新作展初入選 以降入選入賞多数 1990年 伝統工芸新作展日本工芸会賞受賞、日本伝統工芸染織展入選 1996年 重要無形文化財保持者北村武資「羅」の伝承者養成研究会参加 1998年 日本工芸会正会員に認定
- 上野為二
上野為二は、明治34年に京都で生まれた染織家であり、友禅染の世界で著名です。彼の生家は元々京友禅の製作に携わっていた家系で、父である上野清江も京友禅の名職人として知られていました。 上野為二は父から京友禅の技法を学び、さらに日本画や西洋画から絵画的構図を取り入れた大胆で画期的な京友禅を生み出しました。上野為二の作品は独自の世界感を醸し出し、芸術性が高く評価され、昭和30年には人間国宝に選ばれました。 初代為二の直系の孫である上野眞さんは、二代目上野為二を襲名し、現在も精力的に活躍しています。上野家の京友禅は、落ち着いた色調と絵画のような細やかな表現が特徴であり、幅広い年代の方に喜ばれています。
- 細見華岳
1922年に兵庫県丹波市で生まれた細見華岳は、織りの技術において多大な功績を残されました。細見華岳は京都西陣の帯の織元、京都幡多野錦綉堂に入所し、綴織の技術を習得されました。戦時中は満州へ徴兵され、創作を断念せざるを得ませんでした。さらには敗戦後、シベリアに抑留されるなど、言葉にならないほどの苦労を経験されました。 しかし、1948年に帰国され、染織の仕事を再開されました。細見華岳は多彩な色糸を用いて花文や流水を織り、各種工芸展で活躍されました。その真摯な姿勢とお人柄は、人間国宝である喜多川平朗氏や森口華弘氏にも認められ、日本伝統工芸会に出品されました。 彼は色数を抑えた奥深く上品な佇まいの作品を創作し続け、1963年から各賞を受賞されました。1997年には綴れ織の分野で唯一の重要無形文化財である『綴帯』の保持者として認定されました。そして、2012年1月には偉大な功績を残されながら永眠されました(享年89歳)。 綴れ織の織り手さんは、常に指の爪先にヤスリをあて、その爪を文字通り「ノコギリの歯のように」刻まれています。そして、ノコギリの歯のように刻んだその爪で緯糸を一本一本掻き寄せ、織り込んでいき、筋立て(すいたて)という櫛で織り固めるのです。機械が自動的に糸を引き上げてくれるのではなく、一色ずつ、下絵を見ながら手作業で織り込んでいく作業になります。 細見華岳の作品は一見するとシンプルなデザインですが、その中にはいくつものこだわりと類まれなる技術が集約されています。
- 久呂田明功
久呂田明功さんは、東京友禅の染色家であり、その作品は花鳥風月や季節を想わせる草花など、類をみない美意識で表現されています。 また初代久呂田明功さんは、着物作家として有名な浦野理一さんとお仕事をされていました。 久呂田明功さんの作品は絵画のように見入ってしまうほど魅力的です。
- 宮城里子
宮城里子さんは、日本工芸会正会員であり、女流紅型作家として確かな仕事を受け継ぎ、現代の紅型を代表する作り手の一人として活躍しています。彼女は沖縄の豊かな自然をデザイン化し、リズミカルで美しい模様に仕上げた紅型作品を制作しています。月桃、ユウナ、マーランバショウなど、南国ならではの鮮やかな色彩を洗練された感性で表現しています。宮城里子さんは南国らしい雰囲気や身近なモチーフを選びながらも、独特のデザインと色使いが魅力です。 昭和22年(1947年)沖縄県那覇市生まれ 1966年首里高校染織科を卒業 1968年戦後、紅型の復興に尽力した城間栄喜氏の愛弟子である藤村玲子紅型工房に入り、藤村氏に師事、技術とともにもの作りをする姿勢など多くを学ばれます。 1977年独立され自ら工房を設立されます。 1991年沖展準会員賞 1983年沖縄県工芸公募展最優秀賞を受賞 1994年沖展染色部門の会員に認定 1996年第31回日本工芸会・西部工芸展「沖縄タイムス賞」を受賞 2009年琉球びんがた伝統工芸士に認定されます。
- 平野晋二郎
平野晋二郎氏は、日本工芸会正会員であり、紅型作家として確かな仕事を受け継いでいます。彼は沖縄の気候風土の中で自然に育まれた技法の紅型で、透明感のある南国の色彩を制作しています。 琉球紅型は沖縄の地に生まれ育ち、衰退の危機を乗り越えながらも、新しい風を吹かせ、新しい感性を取り入れています。彼の作品は赤、黄、青、緑、紫を基調にした色で華やかに染め上げられ、太陽の光を受けて鮮やかな文様が浮かび上がります。 鋭利な小刀を自在に操って突き彫りされる美しい型が魅力的です。
- 宮野勇造
宮野勇造氏は、加賀友禅の作家であり、その伝統的な技法をデッサンを基盤として用いています。宮野勇造氏は加賀友禅の巨匠であり、様々な題材から独自の感性で幅広い図案を描き出す柔軟で真摯な姿勢を持っています。 宮野勇造氏は女性の内面の美しさを引き出すことに優れ、大変人気の高い作家です。宮野勇造氏の作品は、一瞬の風景を写し取ったかのような大胆で開放的な構図で、女性の優雅さを表現しています。 宮野氏の作品は、雅やかな装いを身にまとった時に、風に吹かれて動き出すような活気と躍動感に満ちています。 宮野氏は毎年複数枚の新しい図案を発表し、後進の指導や育成にも力を入れています。 1990年: 第12回伝統加賀友禅工芸展で銅賞を受賞 2000年: 第41回石川の伝統工芸展で日本工芸会賞を受賞 2002年: 第28回加賀友禅新作競技会で伝統的工芸品産業振興協会会長賞を受賞 2008年: 第34回加賀友禅新作競技会で中部経済産業局長賞を受賞 2009年: 第31回伝統加賀友禅工芸展で銅賞、第35回加賀友禅新作競技会で中部経済産業局長賞を受賞 2010年: 第36回加賀友禅新作競技会で伝統的工芸品産業振興協会会長賞を受賞
- 生駒暉夫
生駒暉夫さんは、長野県佐久市で生まれ育ち、高校卒業後に上京しました。呉服会社の染芸部で働きながら友禅を学び、夜間は武蔵野美術専門学校に通いました。30歳で独立し、図案から友禅まで室内でできるすべての工程を自宅で手掛けています。 生駒暉夫さんは叩き糊やぼかしといった多様な技法を駆使し、信州の美しい自然や四季をシックな色彩で描いた作品を制作しています。また、虫を擬人化した表情豊かでユニークな作品も手掛けており、ご自身の作品を製作する傍ら、お弟子さんの育成にも力を注いでいます。生駒さんは伝統工芸展などにも数々出品され、個展も開催されており、日本工芸会正会員として、東京友禅を代表する作家の一人です。 生駒暉夫さんの作品は、伝統的な技法を踏まえつつも、大胆な構図と豊かな色彩表現が特徴であり、東京の都会的な風景に調和する美しさを持っています。自然の荘厳さや四季折々の風情を温かい視点で描き、時に微笑みを誘うユニークなモチーフで作品を表現しています。
- 木原明
木原明さんは、小倉建亮さんに師事し、その後辻ヶ花染めから学んだ絞りと友禅の両方を併用した独自の作風を確立しました。木原明さんは日本工芸会正会員として活躍されました。 木原さんの作品は、自然に生まれる遠近や色の強弱が透明感のある世界を表現します。
- 林郁
林郁さんは、確かな技術に基づいた丁寧な手仕事で、草木染めによる穏やかな彩りの作品を一点一点制作しています。林郁さんは地元鹿児島で大島紬から織りの世界に入りました。 林さんは卓越した技術と持ち前の探求心を持ち、他では見られないオリジナリティあふれる織物を作り出すことに人生を捧げてきました。林さんはすべて独学に近い形で研究と創作を続けています。ご自宅の周りや近くにある植物で絣を括り、草木で染め、ひとつずつ手織りで作品を制作しています。 林郁さんの作品は、沖縄の首里織の一つである「道屯織」にも影響を受けています。道屯織は首里王府の城下町として栄えた首里で織られる王家や貴族専用の高貴な織物でした。平織地の中に部分的に糸の密度を濃くして立体的に見せ、裏表に経糸が浮かせる織り方を用いています。特に光に当たると浮き立つ花織の部分が美しく、林さんの作品は独特の魅力を放っています。
- 山田貢
山田貢さんは、重要無形文化財保持者(人間国宝)であり、日本工芸会正会員としても活躍していました。山田貢さんは伝統的な友禅技法を駆使し、大胆な構図と清冽な色彩による新しい友禅の世界を切り拓き、染織界に大きな影響を与えた一人です。 山田貢さんの作品は、松や波、魚などの自然物や古典的な模様を題材に描かれています。特に伝統的なもち糊による糸目、堰出し、叩きなどの防染糊の巧みな手技による絵際の明確さが迫力ある力強い美しさを完成させ、見る者を魅了しています。 1912年に岐阜県岐阜市で生まれ、14歳で友禅作家の中村勝馬氏に師事しました。手書友禅や蠟染の技法を学び、二科展工芸部への連続入選を果たした後、1951年に友禅作家として独立しました。友禅染誕生時代の装束の品格を理想とし、能装束や狂言装束の意匠と文様の研究を行い、1957年からは日本伝統工芸展に出品し、1960年に日本工芸会正会員として認定されました。1984年には「友禅」の分野で重要無形文化財保持者に認定されました。後年は復元事業や後進の育成にも専念し、精力的に活動されました。2002年に享年90歳で永眠されました。
- 鈴田滋人
鈴田滋人氏は、木版摺更紗という染色技法で独自の作風を確立しました。この技法は、江戸時代初期に始まった鍋島更紗を起源とし、木版と型紙の2種類の型を併用して染色する特異な方法です。鈴田氏は、父である鈴田照次氏が幻の鍋島更紗の復元に半生を捧げた後、現代の鍋島更紗彼を作りたいと染色の道に入りました。 鈴田滋人氏の作品は、緻密で豊かな色構成を持ち、版打ちのリズムの美しさや高貴さ、日本画的な静謐さを感じさせます。木版摺更紗は、約10cm角の木版を全身の力を込めて連続して押して染めていく作業を要しますが、その結果、清新な構成的幾何学文様が創り出されます。 鈴田滋人氏は、2008年に「木版摺更紗」の分野で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、その作品は見る人を魅了する素晴らしい逸品となっています。
- 百貫華峰
百貫華峰氏は昭和41年に加賀友禅の人間国宝である木村雨山氏に指導を受けられています。画家としても活動される百貫華峰氏が生み出す加賀友禅の作品は一枚の絵画のように美しく、とても人気が高いです。今に至るまで、百貨店で個展を多数開き、現代美術展や日本現代工芸展、日展などで数多くの賞を受けられています。 昭和52年 現代美術展審査員に選ばれる。勤労者美術展審査員になる。 昭和55年 東京三越本店にて初めて個展を開く。 昭和58年 全国植樹祭の天皇陛下、ご来県の御宿所加賀屋「渚亭」で染額「鶴竹の図」「花鳥の図」が天覧の栄光に浴す。 昭和61年 金沢の東急で個展。 昭和63年 金沢市文化使節団として蘇州市を訪問する。 平成 7年 通商産業大臣認定 伝統工芸士となる。 平成 8年 第16回全国豊かな海造り大会天皇陛下ご来県の際、テーブルセンター「遊魚」染額「鶴・松竹梅」の制作にあたる。
- 和宇慶むつみ
和宇慶むつみさんは、1958年に沖縄市で生まれ、高校を卒業後、会社員として働かれました。その後、26歳の時に出産を機に、姉の勧めで首里織物の世界に入られました。しばらくして、首里織物の人間国宝である宮平初子さんの工房に入り、本人から薫陶を受けました。首里織の技法はもちろん、宮平初子氏の首里織の古典柄の復刻もそばで見てこられ、18年間の修行を経て独立されました。現在は国画会の準会員であり、第50回の沖展で最高賞の沖展賞を受賞するなど、数多くの賞を受賞され、国展入選の常連となられています。 1958年 沖縄市に生まれる 1993年 第45回沖展「首里花織訪問着」初入選 1998年 第50回沖展「亀甲花絣着物」沖展賞 1999年 第51回沖展「手花着物」奨励賞 2001年 第53回沖展「首里織『花織綾の中』」奨励賞、準会員推挙 2003年 第55回沖展「首里織『和』」準会員賞 2004年 第56回沖展「首里織『花筏』」準会員賞、会員推挙 2019年 国展 会友賞、準会員推挙
- 二塚長生
二塚長生さんは、1946年に富山県で生まれ、金沢市内の加賀友禅工房で伝統的な友禅の技法を修得し、独立されました。最初は加賀友禅を制作されていたそうですが、約30年前に加賀友禅の世界から離れ、糊糸目を主役とした独自の友禅の世界を築き上げました。二塚長生さんの作品の特徴のひとつは「白上げ」という技法です。友禅の糊置き技法の中でも、江戸時代中期に流行した糸目糊置きのみを用いて模様を白く表す技法を採用し、「雲」「風」「滝」といった躍動感あふれる自然のモチーフをダイナミックに表現しています。二塚長生さんは2010年に「友禅」の分野で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。 経歴 1946年 富山県生まれ 1967年 金沢市内の加賀友禅工房で修業を始める 1974年 友禅作家として独立 1975年 第22回日本伝統工芸展 初入選 1991年 第28回日本伝統工芸染織展 文化庁長官賞 1995年 第32回日本伝統工芸染織展 文化庁長官賞 1997年 第44回日本伝統工芸展 朝日新聞社賞 1999年 日本の工芸「今」100選展(フランス・三越エトワール)招待出品 2000年 第47回日本伝統工芸展 文部大臣賞 2006年 紫綬褒章受章 2010年 重要無形文化財「友禅」保持者に認定 2016年 旭日小綬章受章
- 林宗平
林宗平工房は、昭和18年に初代宗平によって雪国、南魚沼の地に創業されました。この工房では、重要無形文化財である越後上布をはじめ、伝統的な工芸品である米沢紬や本塩沢などが製作されています。昭和53年の全国織物競技大会では、塩沢紬訪問着が、平成17年度の全国伝統的工芸品公募展では本塩沢訪問着が内閣総理大臣賞を受賞しました。
- 鈴木苧紡庵
鈴木苧紡庵氏は、越後上布の第一人者として知られ、重要無形文化財に認定されています。鈴木苧紡庵氏は越後上布の伝統的な技法を継承しつつ、絣の紬にも取り組み、自身の名を冠した「苧紡庵紬」を作成しました。彼の作品は大胆な色彩感覚とオリジナリティに溢れ、品質の高いものが多くあります。鈴木氏は極細の苧麻を用いて作られた作品で、そのやさしい質感は非常に魅力的です。鈴木苧紡庵氏の作品は今でも多くのファンに愛されています。
- 伊佐川洋子
伊差川洋子さんは昭和21年に生まれ、当時、全国でも例の少なかった染織科のある高校、沖縄県立首里高校に進学し、そこで紅型を学びました。大学卒業後、染織家の浦野理一さんに師事し、のちに伊差川洋子染色工房を設立しました。伊差川洋子さんはより多くの人々に美しい紅型を着てもらいたいと考え、新しい紅型を目指して独自のモチーフで創作紅型も制作しました。そのため、伊差川洋子さんの作品は一目でわかるデザインと色使いが特徴です。また、伊差川さんは紅型の祖形とされる「浦添型」の研究でも知られており、古琉球紅型浦添型研究所を設立し、復元にも力を注ぎました。現在、伊差川さんの遺志は長女の仲本のなさんや工房の皆さんによって引き継がれています。
- 田島比呂子
田島比呂子さん、本名は田島博といい、大正11年に東京で生まれた着物や染織作家です。 小学校を卒業後、友禅模様師である高村樵耕・高村柳治の元で内弟子として修業し、友禅染の技法を学びました。 1959年、師匠の高村柳治の勧めで日本伝統工芸展に出展した訪問着「揺影」が見事初入選を果たしました。1961年には日本工芸会の正会員となり、1966年には「青東風」という訪問着で日本工芸会総裁賞を受賞しました。翌年の1967年からは日本伝統工芸展の監査委員を務め、1972年には日本工芸会理事、1986年には常任理事に就任しました。1987年には紫綬褒章、1993年には勲四等旭日小綬章を受章し、1999年には77歳で重要無形文化財・友禅の保持者(人間国宝)に認定されました。この間も日本伝統工芸展に作品を出品し、1998年には訪問着「入江」で日本工芸会保持者賞を受賞しています。 当時の友禅染の世界では、デザインと染色が別々の人が担当していました。高村父子に師事した経験は、後に比呂子さんがデザインを考案する際に大いに役立ちました。
- 山本由季
染色作家・山本由季さんの作品は、自然に囲まれた宮城県の工房で制作されています。彼女は花や虫、動物たちをモチーフにしたファンタスティックな着物や帯を作り、可愛らしさと力強さを兼ね備えた独特の個性で多くの人々を魅了しています。 山本由季さんは1945年に東京で生まれました。東京女子美術大学工芸科を卒業後、仙台に山本由季染色教室を開設しました。その後、宮城県柴田郡川崎町の美しい山中に工房「ギャラリー由季野」を設立し、創作活動を続けています。彼女は国画会染色部門入選、新人染色展入選、京都新匠会入選などの栄誉を受けています。
- 池田リサ
- 小島貞二
国画会正会員である小島貞二氏の父は、型絵染作家の大御所である小島悳次郎(とくじろう)氏です。隣家には型絵染の祖であり人間国宝でもある芹沢けい介氏が住んでおり、幼少の頃から染色に親しんでいました。インドに魅了された貞二氏は、数十回にわたりインドを訪れ、その文化や気候風土に触れることで深い造詣を持ち、多大な影響を受けました。 小島貞二氏の作品は顔料を用いる型絵染の特徴である色彩の力強さを備えています。他の型絵染作家の作品とは一味も二味も違い、迫力を感じます。通常よりも濃度の高い顔料を使用して染色されているためです。特に、彼の色彩感覚はカラフルなインドの民族衣装を連想させるエネルギーを放っているようです。 小島貞二氏の作品は普段とは異なるコーディネートに素敵なアクセントを加えてくれることでしょう。 1949年 東京生まれ 1967年 染色家の父・小島悳次郎につき染色を始める 1973年 日本民藝館奨励賞 1977年 個展活動を開始 1979年 国画会新人賞受賞 1988年 国画会正会員 1972年より20回以上インドを訪れる インドの染織に造詣が深いことでも有名
- 青戸柚美江
山陰地方は古くから木綿絣の産地として知られており、弓浜や倉吉、広瀬などの絵絣が広く知られています。その中でも「出雲織」は伝統工芸品として注目されており、第一人者である青戸柚美江さんが手がけています。 青戸柚美江さんは生まれ故郷の伝統的な弓浜絣を基に、創作性と芸術性の高い木綿の着物を織り始めました。また、出雲の織物の研究と復興にも力を注いでおり、第41回日本伝統工芸中国支部展鳥取県知事賞などを受賞しています。 彼女は染色と織りのすべての工程を一人で行っています。鳥取県安来市で伝統的な技術を基に、木綿だけでなく絹や天蚕、紙布、蓮糸などさまざまな天然素材を使用しています。自身で綿を育て、手紡ぎの糸を草木や本藍で染め、手機で織り上げた着物や帯は力強く、温かな風合いと奥深い美しさが感じられます。 青戸柚美江さんの木綿絣は出雲織の原点であり、人の手によって作られる贅沢なお品です。
- 吉岡幸雄
吉岡幸雄氏は、日本の染色界で第一人者として知られている染織史家であり、江戸時代から続く染屋「染司よしおか」の五代目当主を務めました。彼は1946年に京都市伏見区で生まれ、美術工芸に対する興味と京都の伝統に対する関心から、1973年に美術工芸図書出版「紫紅社」を設立しました。 1988年には生家の「染司よしおか」の五代目当主となり、染師福田伝士氏と共に化学染料を一切使用せず、伝統的な植物染による日本の伝統色を再現する取り組みを行いました。毎年、東大寺お水取りの椿の造り花の紅花染和紙など、古社寺の伝統的な仕事にも取り組んでいました。 吉岡幸雄氏は古来の文献や伝世の染織遺品を研究し、失われた古代の染色技術を復活させるために実験を重ねました。東大寺・正倉院の宝物の復元や源氏物語に登場する全368色の再現・復元など、様々なプロジェクトで日本古来の伝統的な色彩を現代に蘇らせました。 吉岡幸雄氏の作品は天然染料を用いており、「染司よしおか」の染めは草樹花実に宿る色を糸や布に染める植物染や、貝による帝王紫の染色を専門としています。雅やかで美しい彩りは、ひとつの色の中にも悠久の歴史と文化を感じさせます。 1946年 京都市に生まれる。 1971年 早稲田大学第一文学部卒業。 1971年 光村推古書院にアルバイトとして勤務。 父、常雄の口利きによる。 1973年 美術図書出版「紫紅社」設立。 1988年 生家「染司よしおか」の五代目当主を継ぐ。染師福田伝士氏と二人三脚で日本の伝統色の再現に取り組む 1991年 奈良薬師寺三蔵院にかかげる幡五旗を多色夾纈によって制作し、きもの文化賞を受賞 (財団法人民族衣裳文化普及協会)。 1992年 薬師寺「玄奘三蔵会大祭」での伎楽装束四十五領を制作。 1993年 奈良東大寺の伎楽装束四十領を制作。天平の時代の色彩をすべて植物染料によって再現して話題となる。 2001年 獅子狩文錦の復元制作に参加。 2002年 鹿草木夾纈屏風の復元制作に参加。 2008年 グッドデザイン賞受賞(インディペンデントディレクターとして参画) - 成田空港到着ロビーのアートディレクターをつとめる (グッドデザイン賞受賞)。また、源氏物語千年紀にあたり、源氏物語の色五十四帖を再現。 2009年 京都府文化賞功労賞受賞。 2010年 日本古来の染色法による古代色の復元、東大寺等の伝統行事、国文学、国宝修復など幅広い分野への貢献が認められ、第58回菊池寛賞受賞(日本文学振興会主催)。 2012年 放送文化の向上に功績があった人物に贈られる、第63回 (平成23年度) NHK放送文化賞受賞。 2015年 銀座もとじ和染35周年記念展出品 2016年 英国ヴィクトリア&アルバート博物館からの依頼で制作した永久保存用「植物染めのシルク」が同博物館に収蔵される。 2016年 銀座もとじ和染 個展開催 2019年 銀座もとじ和染 個展開催 2019年9月30日 死去。73歳没。
- 森山虎雄
初代の森山虎雄氏は、福岡県八女郡で1909年に生まれました。家業である久留米絣を続ける森山家の3代目として、幼少期から手伝いをし、見よう見まねで技術を身に付けていきました。16歳の時から本格的に久留米絣の製作に携わり、昭和初期には県工業試験場の指導を受けながら純正藍染めの研究を行いました。男物の細かい柄や伝統的な亀甲柄、蚊絣などの小柄の藍染技法で優れ、1959年には重要無形文化財「久留米絣」技術保持者・人間国宝に認定されました。その後も日本伝統工芸展への出品や日本工芸会会員として活動し、技術の保存や新しい柄の研究に努めました。また、後継者の育成にも力を注ぎ、多くの優れた技術者を育てました。 森山虎雄氏は、食道ガンのため享年70歳で亡くなりました。 彼の功績は多岐にわたり、1952年の全国織物コンクールで特選・国務大臣賞を受賞するなど、数々の賞を受けています。日本工芸会正会員として活動し、重要無形文化財久留米絣技術保持者理事や財団法人久留米絣技術保存会理事としても活躍しました。 現在は二代目の森山虎雄さんがその技術を受け継いでいます。 二代目森山虎雄氏は1933年に福岡県八女郡広川町で生まれました。本名は啓男氏ですが、父である初代森山虎雄の後を継ぎ、1975年に人間国宝として認定され、久留米絣の重要無形文化財技術保持者として活動しています。父親の没後、彼は二代目森山虎雄と名乗るようになりました。 二代目森山虎雄氏は、先代から受け継いだ高度な小柄の技術をさらに発展させ、独自の美しい幾何学文様を創り出しました。その功績により、日本伝統工芸展や日本染織展などで入選や受賞を重ね、現代の小柄久留米絣を代表する作家の一人として名を馳せています。 彼の業績には、1975年の重要無形文化財久留米絣技術保持者・人間国宝の認定や、1986年の日本伝統工芸展文部大臣賞の受賞、2003年には勲四等瑞宝章を受章するなど、数々の栄誉があります。また、日本工芸会の正会員としても活動しています。
- 松枝玉記
松枝玉記氏は久留米絣界の代表的な作家であり、日本の染色界で第一人者として知られています。彼は1905年に福岡県三潴郡で生まれ、養父である栄氏の指導のもとで久留米絣制作に従事しました。 1957年には日本伝統工芸展に初出展し、その後も出品を続け、1970年には日本工芸会正会員に推挙されました。松枝玉記氏は長い間創作活動を続け、多くの賞を受賞し、後継者の育成にも力を注いできました。1959年には重要無形文化財久留米絣技術保持者にも認定され、1989年には久留米絣技術保持者会の会長に就任しましたが、同年に亡くなりました。 松枝玉記氏は久留米絣の製作工程、柄つくり、手くびり、藍染、手織のうち、柄つくりと藍染を専門としており、詩情にあふれた大柄な絵画的文様と淡い藍色の階調を組み合わせて独自の世界を築いてきました。松枝玉記氏の最も重要な役割は絣模様の考案であり、「一日一枚」の絣の図案を日課としていたことから、日々絣模様について考えていました。模様の考案は「最も難しく、そしてやりがいのある仕事」と言われており、藍の美しさと久留米絣の特性を見事に活かした伝統工芸作品を数多く残しています。これらの作品は想像力を刺激し、楽しむことができる優れたものです。
- 喜多川平郎
喜多川平朗さんは、明治31年に京都西陣の俵屋で生まれました。俵屋は代々織物を作り、江戸末期には有職織物も手がける由緒ある機屋です。彼は画家志望でしたが、後に家業を継ぐことを決意し、父の指導のもとで修行しました。昭和2年には俵屋17代目を継承しました。 彼は昭和3年に昭和天皇即位大典儀式用の装飾や装束織物の製織を手がけ、宮中や神宮、神社などの織物も制作しました。また、昭和初年からは古代染織品の復元模造事業にも製織主任として携わり、第2次大戦後には羅の復元にも取り組みました。 喜多川平朗さんは昭和31年に「羅」で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、さらに昭和35年には「有職織物」においても同様の認定を受けました。彼は90歳で亡くなりましたが、親子二代にわたり、重要無形文化財保持者としての認定を受けています。
- 赤坂武敏
- 芦原晋
- 伊砂利彦
- 伊豆蔵明彦
- 上野街子
京友禅の名門「上野家」は、友禅の染匠として初代 上野清江(うえのせいこう)氏から始まりました。その息子である上野為二 (うえのためじ) 氏は友禅の世界で初めて人間国宝に認定されました。次男の上野清二(うえのせいじ)氏は上野家に嫁いだ上野街子さんとご結婚され、清二氏が急逝された後、街子さんは弟子たちと共に遺志を引き継ぎ、工房名を「清染居」として、伝統を守りながらものづくりを進めています。 清染居は京都北山紫野にある工房で着物を制作しており、「人の短い一生にとらわれず、伝えていくことのできる名前を作品の一つひとつに刻んでおきたい」という想いから、作家名ではなく「清染居」という落款を使用しています。 上野街子さんの染め描く伝統柄は、古典の中に現代的なセンスを漂わせ、洗練された美しさを持っています。上野街子さんの作品は香り高い女性らしさと暖かさを表現しており、京加賀友禅の伝統に現代の息吹きを織り込んでいます。
- 大城廣四郎
大城廣四郎氏は沖縄の染織工芸会の巨匠であり、戦後の琉球絣の復興に尽力した琉球絣の第一人者です。彼は南風原で琉球絣を制作するだけでなく、日本伝統工芸展を通じて「現代の琉球絣」を発表した染織家でもありました。 日本工芸展などで賞を受賞し、1988年には労働大臣から現代の名工「卓越技能者」として表彰されました。現在でも、その卓越した技術は息子の大城一夫氏と孫の大城拓哉氏によって受け継がれています。大城一夫氏も同様に日本伝統工芸展で伝統の技を守りながら作品を発表しています。
- 大村禎一
大村禎一さんは昭和18年に生まれ、お父様が図案家であったため、その仕事を身近で学びました。京都市立芸術大学で日本画を学び、卒業後は染色の修行を積み、昭和42年に大村工房を設立しました。日本画科出身でありながら、写生を基本とした作品制作で活躍し、日本工芸会正会員としても多くの受賞歴を持っています。 大村禎一さんの作品には「蝋吹雪染」という技法がよく用いられています。この技法は、熱いロウを生地に吹き付けることで、その部分が防染されるため、まるで吹雪のような効果が生まれます。大村禎一さんの作品は今でも大村工房で制作されており、彼が亡くなった後は自然に囲まれた京都・原谷の工房で、長男の幸太郎さんが魅力ある作品を継承しています。
- 大脇一心
辻が花、それは桃山時代から江戸時代初期の一時期に栄えた後、友禅染の発達によって途絶えてしまった幻の染織です。数少ない現存する小袖や資料から、復元と研究を重ね、辻が花染を復活させた作家の一人が大脇一心さんです。 大脇一心さんの辻が花は「西洞院辻が花」として制作されており、優しい墨絵のタッチと奥行きのある色使いが特徴です。この作品は桃山時代のものに近い雰囲気を持ちつつ、現代的なセンスも併せ持っており、幻想的で優美な柄ゆきが辻が花好きの心を魅了しています。 「西洞院辻が花」は、藍染の美しさと伝統的な技法を活かした素晴らしい作品です。
- 岡本紘子
岡本紘子さんは型絵染作家であり、国画会の会員です。彼女は幼少期から絵を描くことが好きで、女子美術大学を卒業後、人間国宝である芹沢銈介氏に師事しました。その後、ご主人で型絵染作家の岡本隆志さんと結婚し、お二人で国画会を代表する型絵染め作家として活躍しています。 「型絵染」とは、1956年に芹沢銈介氏の技法が重要無形文化財に認定された際に、他の型染め技法と区別するために名付けられたものです。この技法では、図案から型彫り、防染、染めまでの工程を一人の制作者が一貫して手がけます。そのため、作家の個性がより表現されやすく、創造性豊かな作品が生まれます。 岡本紘子さんの作品は、細やかな型彫りで表現された小さなモチーフの愛らしさや、温かみのある色遣いが特徴です。丁寧な手仕事が施された工芸品は、全国の着物愛好家から愛されており、高い評価を受けています。
- 岡本隆志
岡本隆志さんは、型絵染作家であり、国画会の会員です。彼は神奈川県湯河原市の工房で物づくりをしています。生まれは浜松で、人間国宝である芹沢銈介氏に師事しました。芹沢門下生として出会った型絵染作家の岡本紘子さんとは結婚後も一緒に創作活動を行っています。 「型絵染」とは、1956年に芹沢銈介氏の技法が重要無形文化財に認定された際に、他の型染め技法と区別するために名付けられたものです。この技法では、図案から型彫り、防染、染めまでの工程を一人の制作者が一貫して手がけます。そのため、作家の個性がより表現されやすく、創造性豊かな作品が生まれます。 岡本隆志さんの作品は、モダンアートのような幾何学模様が楽しい角帯や九寸帯に表れています。これらの作品は大人の遊び心と個性を軽やかに演出してくれます。
- 小川規三郎
小川規三郎さんは、博多織職人であり、重要無形文化財「献上博多織」の保持者として知られています。小川規三郎さんは父であり後の人間国宝である小川善三郎氏に15歳の頃から師事し、2003年には自身も「献上博多織」技術保持者として認定されました。親子2代で人間国宝に選ばれた方です。 博多織は機械化や分業化が進む中でも、小川規三郎さんは今なお製作過程の全てに関わり、手織りで仕上げるスタイルを貫いています。彼の作品は日本伝統工芸展や日本工芸染色展、福岡県文化賞などで受賞されており、九州産業大学名誉教授や博多織ディベロップメントカレッジの学長を歴任しながら、後進の育成にも力を注いでいます。
- 小川善三郎
小川善三郎さんは、博多織職人であり、重要無形文化財「献上博多織」の技術保持者として知られています。彼は生涯を献上博多織の研究と製作に捧げ、その技術で人間国宝に認定されるほどの名声を得ました。 博多織は古くから続く歴史を持ち、鎌倉時代から存在しています。この織物は中国伝来の要素を多く含んでおり、江戸時代には黒田藩(現在の福岡県)の保護と厳格な管理の下で作られ、幕府への献上品とされました。そのため、「献上博多織」という名前が付けられました(博多織は福岡県福岡市博多区周辺で作られている絹織物です)。 小川善三郎さんの作品は、伝統的な手織りにこだわり、草木染による優しい色使いが、上質で品格もあり、柔らかさや、糸質の良さ、そしてもちろん技術的な面から見ても大変素晴らしい作品が多いです。
- 小河正義
越後上布は、夏の麻織物で、その最高級品として知られています。苧績(おうみ)と呼ばれる作業から図案、染め、機織、雪ざらしまで、繊細さと根気が要求される手作業でつくられます。江戸時代には年間20万反ともいわれた製作反数も、近代化により激減しました。昭和30年に国の重要無形文化財に指定され、昭和48年からは後継者の育成事業が続けられていますが、現在は年間20反前後となっています。 素晴らしい作品の製作を統括していたのは、故・小河正義さんでした。織り上がった反物の確認証には、「麻匠 小河正義」とお名前が記されていますので、御存知の方も多いのではないでしょうか。また、越後上布・小千谷縮布技術保存協会の会長として、後継者の育成や技術の継承にも尽力されました。
- 小熊素子
紬縞織や絣織の重要無形文化財保持者である故・宗廣力三さんに師事し、他のお弟子さんたちと共に生活しながら、染め織りの基礎を2年間修行された後、糸の草木染めから機織りまで、ご自宅で一人で作業されています。庭で育てた草木も草木染めに使用され、染められたたくさんの糸のストックの中から、小熊素子さんのセンスで織られる紬は、格子、縞、無地など、郡上紬の素朴さと都会的な感覚が組み合わさった丁寧に作られた上質な作品ですが、一人での製作なので作品数は限られています。
- 押田正義
大正12年6月26日に金沢で生まれました。昭和24年の春から人間国宝である木村雨山先生に師事し、加賀友禅の技術を学びました。終戦後、金沢で独立され、加賀友禅雷鳥会の最高賞や加賀染創作競技会の賞など、さまざまな作品展で受賞されていました。精力的に創作し、加賀友禅の発展に尽力されてきましたが、残念ながらすでに亡くなられています。 加賀友禅は、加賀五彩とも呼ばれ、臙脂、藍、黄土、草、古代紫を基調としています。これらの色を使って着物に美しい自然の息吹を閉じ込めています。写実的な草花の模様を中心にした絵画調の柄が特徴で、手描きの美しさが線に感じられます。また、「外ぼかし」や「虫喰い」といった技法も使われています。京友禅とは異なり、染色以外の技法はほとんど用いられていないのも特徴です。 これからますます市場で見かけることが難しくなるであろう、本物の加賀友禅の巨匠の作品です。
- 石月まり子
日本工芸会正会員、染織作家である石月まり子さんは、小岩井紬工房に入門後、独学で染織を学ばれました。しじら織で知られ、光沢感のあるふっくらした織り味の優しい作品を制作される染色作家です。 しじら織は、ごく細かいしぼによって布が肌から離れ、サラサラとした風通しの良い着心地の夏生地です。古代種の蚕から得た絹糸の見事な光沢と発色の良さを生かし、複雑な織を駆使して羽衣のような軽やかさと肌離れの良い張りを生み出し、夏衣としてこの上ない質感が圧倒的な美しさを表現しています。 ◇主な受賞 ・平成16年 第44回日本工芸会東日本支部 伝統工芸新作展 正絹しじら織着物「舟の夢」 東京都教育委員会賞 受賞 ・平成19年 第47回日本工芸会東日本支部 伝統工芸新作展 しじら織着物「夕波」 東京都教育委員会賞 受賞
- 大渕茂
- 大桝久美絵
八重山上布は、苧麻の手紡ぎ糸を使って織られ、古くは琉球王朝時代に貢布としても利用されてきました。仕上げに海水につけることで地色が白く晒され、絣模様がより鮮やかになります。近年ではラミー糸(手紡ぎではない苧麻の糸)を経糸に使用したものも増えています。 大舛久美絵さんは、図案の作成から糸の染色、機織りまで、1反の作品を最初から完成まで全てご自身で行っていました。石垣市織物事業協同組合に所属していましたが、残念ながら現在は制作をされていないようです。大舛久美絵さんの作品に出会う機会はごくわずかと思われますが、彼女の作品は加賀友禅の美しさと独自の技法が融合した逸品です。
- 小川内龍夫
小川内龍夫さんは、重要無形文化財技術保持者であり、久留米絣の制作を18歳から始め、50年以上にわたって伝統を守り続けてこられました。小川内龍夫さんは小付けでモダンな柄行を得意とする作家です。 久留米絣を作る際には、柄作りから最終的な検査まで30以上の工程があります。経糸と緯糸の手括りの絣、伝統的な天然藍染め、そして手織りのすべての工程が人の手で行われています。藍染めは庶民の染織で布を丈夫にしてくれるだけでなく、洗えば洗うほど色が美しく冴え、深みを増すと言われています。
- 上野真
- 伊藤峯子
伊藤峯子さんは、首里織の中でも最も格式の高い花倉織の作品制作に取り組んでいる染織作家であり、日本工芸会の正会員でもあります。彼女は第40回日本伝統工芸展の高松宮記念賞など、数々の賞を受賞しています。また、アトリエITOを主宰している方でもあります。 花倉織は、絽織と花織を組み合わせた単衣絹織物で、王族だけが着用することが許されていました。伊藤さんは群馬から糸を取り寄せ、自身で染め出しています。特に生繰りの糸は発色と艶感が優れており、花織の立体感と絽の透けがもたらす複雑な陰影にさらなる輝きを加えています。 彼女の作品は淡く、優しく、創作的な色彩感性が感じられ、花織と絽織が静かに美しく共鳴しているかのようです。首里織特有の品位と制作者の美意識が調和した、格別な存在感があります。
- 大仲毬子
八重山上布の糸や染料には、八重山の自然から得られる草木が使用されます。主原料は苧麻から作られる繊維で、染料にはヤマイモ科の「紅露」(クール)が使われます。織り上げられた後、八重山地方の強い日差しのもとで日晒しを行うことで深い色合いへと変化し、さらに海水につけることで地色が白く晒され、絣模様がより鮮やかになります。 八重山上布の特徴は、苧麻手紡ぎ糸のさらっとした風合いと風通しが良いこと、白地に浮かび上がる大らかな絣模様です。一反の着尺を織るための糸を作るには、経糸(たていと)が約50日、緯糸(よこいと)が約40日かかります。この根気のいる作業に加えて、近年ではラミー糸(手紡ぎではない苧麻の糸)を経糸に使用したものも増えています。 大仲毬子さんは、石垣市織物事業協同組合に所属されており、図案の作成から、糸の染色、機織など1反の作品を最初から完成まですべてご自身でなさっています。
- 遠藤聡子
- 板倉眞理子
板倉眞理子さんは、長年にわたり国画会で活躍している型絵染の作家です。彼女は国画会の展覧会に多数の作品を出品しています。型絵染の魅力は、友禅のような写実的な作品とは異なり、彫り抜かれた型のデザインや構成、白い部分をどのように活かすか、そして重ね染めによる新しいリズムや世界が広がることです。これにより、観る人々はさまざまな感情やイメージを広げることができます。 板倉眞理子さんの作品は、非常に可愛らしいポップな型彫りであり、染める色合いによって異なる作品が生まれ、ユニークで楽しい作品が多いと感じます。
- 大澤澤蔵
- 岩井香楠子
型絵染の巨匠、岩井香楠子さんは1938年に神奈川県で生まれました。幼少期から芸術に親しみ、人間国宝である鎌倉芳太郎氏に師事し、「常に前進」をモットーに紅型や絞り染めなどの様々な技法を習得しました。1980年には日本伝統工芸染織展に初入選し、1984年からは日本工芸会の正会員として活躍しています。 岩井香楠子さんの特筆すべき点は、自身で下絵を描き、型を彫り、染色することです。鎌倉芳太郎氏から学んだ技術と、これまでに作り上げた100枚以上のデザインを駆使し、海外での経験から西洋の美的感覚も取り入れ、より洗練された作品を創り出しています。彼女の鋭い観察眼により、着用しやすさと着こなしやすさも考慮された作品が生み出されています。 岩井香楠子さんは「いつも女性が輝いていてほしい。着物が身近なものであってほしい」と願っています。彼女の作品は豊かな色彩感覚で美しく、可愛らしいと評されています。これまで彼女の作品を身に着けた人々は、「着用すると気持ちが明るく前向きになる」と感じています。
- 上原則子
- 大口キミヨ
大口キミヨさんは、人間国宝である志村ふくみさんの門下生として知られる染織作家です。彼女は草木染や手織りの技術を習得し、現在は京都の嵯峨野で制作活動を行っています。 着物文化の普及に尽力し、その活動が認められて民族衣裳文化功労者賞を受賞しています。また、後進の育成にも力を注いでおり、川島織物が設立した川島テキスタイルスクールで草木染の講師を務めた経験もあります。 また、隔年で開催されていた志村ふくみ門下生による小桉会織物展には毎回出品され、軽快なデザインは高い評価を受けています。
- 遠藤あけみ
遠藤あけみさんは、日本工芸会の正会員であり、岩井香楠子さんの工房で30年間修行した後、独立して「型絵染」の染織家として活動しています。 「型絵染」とは、個性的な下絵や絵柄を考案し、型彫りから染色までの工程を一人で手掛ける技術です。この技法は、1956年に人間国宝に認定された染色工芸家の芹沢銈介氏によって生み出されました。遠藤あけみさんは、この技法をさらに発展させ、絵画的表現に焦点を当て、創造性豊かな染色技法を追求しています。 遠藤あけみさんの作品は、芹沢銈介氏の伝統に続く「型絵染」という技法を継承しつつも、可愛らしさや繊細さ、都会的でモダンな要素を取り入れています。彼女の作品には身近な野草や小さな動物たちが生き生きと描かれ、その魅力によって伝統工芸展で連続して入選する人気作家となっています。
- 小川内弘
小川内弘さんは、久留米絣の重要な無形文化財技術保持者であり、大正から昭和にかけて代表的な作家の一人でした。彼の手織りによる久留米絣は、天然の藍染めによる深い藍色と白い絣が映える逸品であり、重要無形文化財に相応しい作品です。 小川内弘さんの作品は現存数が非常に少なく、希少価値が高いものとなっています。数年前までは、ご子息の龍夫さんが制作を続けていましたが、跡を継ぐ人物が現れず、現在は廃業しています。 民藝運動の父である柳宗悦は、「用の美」という概念を提唱しましたが、小川内弘さんの久留米絣は、着用されることでその美しさが際立つと言えます。
- 柿本市郎
柿本市郎氏は、加賀友禅作家として知られ、石川県指定無形文化財「加賀友禅技術保存会会員」にも認定されています。彼は金沢で生まれ育ち、その地の自然や動植物を忠実に再現した作品で知られています。 柿本市郎氏の作品は、「繊細」「奥ゆかしい」と形容され、特に彼が手がける留袖や訪問着は高い評価を受けています。彼は昭和12年に金沢市で生まれ、金沢浅野川の近くで友禅染を学びました。その後、人間国宝である木村雨山氏や能川光陽氏から指導を受け、昭和42年に独立しました。 柿本市郎氏は石川県指定無形文化財「加賀友禅技術保存会会員」として認定され、平成28年には瑞宝単光賞を受賞しました。彼の作品には、加賀友禅の伝統的な文様や写実的な花や木などが描かれており、その綿密な表現は高い評価を受けています。現在も彼は金沢で活動し、伝統的な加賀友禅文様から写実的な訪問着まで幅広く手がけています。
- 甲木恵都子
甲木恵都子さんは甲木工房を主宰し、染織家として活躍しています。東京都で生まれ、経済的に恵まれた環境で育ちました。呉服屋に通う中で、素朴な郡上紬に魅了され、30歳の時には人間国宝である故宗広力三氏に師事しました。その後、東京で工房を構え、日本工芸会の正会員として活動していましたが、草木染料の材料や澄んだ水を求めて、1983年に福岡県筑紫郡那珂川町に工房を移しました。 甲木恵都子さんは工房周辺から草木染の材料を採取し、作る着物一着分に必要な量だけを使用し、自然を必要以上に傷つけないように心がけています。また、着心地の良さを重視しており、帯などの場合は体型が変わっても適応できる模様付けや、汚れた場合に裏返して着られるように両面使える織り方など、着物をよく着用する自身の経験から、長く着用できるような工夫を凝らしています。彼女は糸選びからすべてにこだわり抜き、着物作りに情熱を注いでいます。
- 京屋林蔵
- 熊谷温
- 熊谷好博子
熊谷好博子さんは大正6年に長野県飯田市で生まれ、16歳で上京しました。17歳から染色職人として働き始めましたが、昭和16年に日本画家の川端龍子さんに師事しました。その後、30代で友禅染めに専念するようになりました。 熊谷好博子さんの作品には、石や木、葉などを用いた石摺染や杢目染など、独特の特徴があります。また、東京友禅らしい落ち着いた色彩のものや、手描きの日本画を思わせる作品など、さまざまなスタイルがあります。彼女は日本伝統工芸展を中心に作品を出展し、数々の賞を受賞しています。その活躍から、彼女は東京友禅を代表する作家の一人とされています。
- 黒田妙美
黒田妙美さんは、1998年から3年間、京都で人間国宝である志村ふくみ・洋子さんが主催する「都機工房」で染織を学びました。その後、独立し、現在は千葉県我孫子市で制作活動を行っています。 以前は幼稚園の先生をされていた黒田妙美さんの作品は、子供たちを見守るような優しい雰囲気が特徴です。彼女はふくみさんから受け継いだ身近な植物を用いて昔ながらの草木染めを行い、柔らかで優しい色合いを生み出します。また、時間をかけて手織りされる作品はふっくらとしており、丁寧に制作されています。彼女の作品は東日本伝統工芸展で入選するなど、高い評価を得ています。 また、都機工房の卒業生による「都機の会」にも出品され、多くの愛好家たちが心待ちにしています。
- 桑原功
越後上布の歴史は古く、千数百年前の天平年間にまで遡ります。現在の正倉院には、その時代の麻布「越布」として保存されています。この布は通気性に富み、さらに吸汗性や発汗性にも優れており、真夏の最高のお召し物として大変人気があります。しかし、その生産数は年々減少しており、入手が困難な織物となっています。 桑原功さんは塩沢地方で生まれ、家業の桑原織物で機織りの技術を学びました。自然と織物の世界に親しんだ彼は、熱心に制作活動に取り組み、第48回東日本伝統工芸展で川徳賞を受賞するなど、長い間活躍しました。現在はご子息の博さんが父の足跡を継ぎ、越後上布や塩沢紬などの制作を手がけています。
- 小島秀子
小島秀子さんは国画会の正会員であり、染織作家として精力的に活動しています。女子美術大学の工芸専攻を卒業後、彼女は染織を通じて新たな色彩美とデザイン性を追求し、国展や工芸作家グループ展、個展などで作品を発表してきました。 小島秀子さんは知識と技術、そして独自の感性を活かして、自ら糸を染め、自ら織り上げることにこだわっています。彼女の作品には着物や帯、マフラー、バック飾り布など、さまざまなアイテムが含まれています。それぞれの織りの技術は、色彩と配置を複雑に考えられて構成され、立体感のある可愛らしい色彩で織り上げられています。小島秀子さんの作品は素敵であり、その美しさは誰もが魅了されることでしょう。
- 児玉博
児玉博さんは1909年10月13日に三重県白子町で生まれました。幼少期から父である房吉氏に伊勢型紙の技術を指導されました。 1924年に白子町立工業学校を卒業し、翌年に父が亡くなった後、上京して浅草の伊藤宗三郎に入門しました。彼は同家の職人となり、縞彫を中心に修業を積みました。 1929年に独立して日本橋で開業し、同年に型付師である小宮康助さんの型紙を彫り、以後康助、康孝父子の江戸小紋染に欠かせない存在となりました。彼の作品は日本伝統工芸展にも出品されています。 『玉縞』として知られる曲一寸幅に24本もの縞筋を引く精緻な技術は、伊勢型紙で染められた江戸小紋を指します。現在、児玉博さんが手掛けた「生の伊勢型紙」の中で最も細密な縞が『玉縞』として知られています。 1992年1月1日、82歳で亡くなった児玉博さんは、伊勢型紙の縞彫りで国の重要無形文化財保持者(人間国宝)でした。児玉博さんの素晴らしい技術から生まれた着物は、今も多くのファンに愛されています。
- 小林敬子
岡崎市で草木染の紬織を手がける小林敬子さんは、結婚後に出会った吉野間道に心を惹かれ、染織りを始めました。龍村美術織物や人間国宝の鎌倉芳太郎さん、士乎路紬の製作者である能登の水島繁三郎さんから技術を学び、家族の支えも受けながら創作活動を続け、日本工芸会の正会員として長年日本伝統工芸染織展に出品し、数々の受賞歴を持っています。 小林敬子さんの図案は、山や海、地元の四季など自然をスケッチしたものや、イメージから生まれます。草木染めはもちろん、藍染めまで彼女自身が手がけ、染織への情熱を常に持ち続けています。
- 小宮康助
生没年:1882年 - 1961年。明治から昭和時代にかけて活躍した染色家で、東京出身。 小宮康助氏は明治14年に東京都墨田区の農家に生まれ、幼少時代から浅野茂十郎氏に師事し、小紋染の技術を学びました。後に化学染料を導入し、伝統的な小紋染に留まらず、型染の開発に取り組みました。 26歳で独立し、昭和4年に現在の住所である中川辺りに居を移しました。以後、江戸小紋の染上げに苦心し、昭和30年には江戸小紋で人間国宝に認定されました。しかし、昭和36年に78歳で亡くなりました。 小宮康助氏は細かな模様染めに優れており、特に独自の美しい発色は評価が高く、長い歴史の中で常に人気がありました。江戸小紋の品質向上や染めの技術の向上に尽力し、その業績が重要無形文化財「江戸小紋」として認められました。人間国宝である小宮康助氏によって引き継がれ、現在は息子であり、同じく人間国宝である小宮康孝氏によって受け継がれています。 近年、「江戸小紋三役」として知られる「行儀」「角通し」「鮫」は特に人気があります。
- 北村栄美子
- 米須幸代
首里織は、琉球王朝の貴族や士族の装束として古くから織られてきましたが、明治時代から戦後にかけて他の沖縄の染織品と同様に衰退しました。しかし、その技術復興に大きな功績を残したのが故・大城志津子さんです。 大城さんのもとで修業を積んだ後、新垣みどりさんとともに「あや工房」を立ち上げたのが米須幸代さんです。彼女は数々の展覧会で入選し、確かな技術を持ちながらも、島で自生する天然の染料で糸を染め上げ、天日干しでの退色と染色を繰り返し手間をかけ、女性ならではの素敵な感性で織り上げました。 その織物は、琉球の美しい海と空に囲まれた工房で、愛情をたくさん注がれた贅沢な首里織の逸品です。
- 河野香奈恵
河野香奈恵さんは着物地や帯地を手掛ける染織家です。彼女は青梅市出身で、幼少期から絵を描くことが好きで、中学卒業後には女子美術大学付属高等学校へ進学し、大学ではファッション学科を専攻しました。 卒業制作では、初めて着物と帯を織り、縦糸と横糸だけで表現する中で自由を感じ、現代的な感覚を取り入れて制作しました。卒業後は、染織の神髄を学びながら創作活動を行うため、染織家の小島秀子さんのもとで活動しています。 河野香奈恵さんの作品は国画会が開催する「国展」や他の作品展でも多数の受賞を受けており、2019年には国画会準会員になり、将来を期待される染織作家として注目を集めています。 彼女の主な表現方法は、糸をくくり、色を染め分けて柄を作る絣技法と、縦糸と横糸の交差で文様を作る綾織です。また、作品に使用される絹糸は、自身で染料を調合し染められています。 河野香奈恵さんの作品は鮮やかな彩りがもたらす優艶な大人のスタイルを特徴とし、細やかな文様が繰り広げる魅惑の世界を表現しています。
- 小岩井カリナ
小岩井カリナさんは、上田紬の織元に生まれました。かつては蚕種製造業を営んでいましたが、現在は染め、整経、織りの全工程を行う織元です。 大学では中国語を学び、北京外国語大学へ1年間留学しました。卒業後は劇団前進座付属養成所へ入所し、演劇に関する様々なことを学びました。その後、劇団前進座へ入座し、東京国立劇場を含む都市公演や地方巡演に参加しました。2004年に劇団を退団し、アイルランドへ短期留学し、ヨーロッパを旅する中で日本文化の素晴らしさを再認識しました。その後、実家の上田紬の道へ入る決意をしました。 2016年には信州紬総合部門伝統工芸士に認定されています。小岩井カリナさんの着物は、経糸と緯糸に複数の色を使い、大きな格子状に柄が表現されており、カラフルで元気な雰囲気が特徴です。
- 川村成
川村成氏は、京都の芸術大学で学び、その後、織の最大産地である「西陣」で職工としての技術を磨きました。その後、独立して現在は京都の工房にて自身の感性を活かした作品を生み出しています。 川村成氏の豊かな創造力と高度な技術により、全国の専門店や着物愛好家から絶大な人気を博しており、国画会準会員として展覧会で数々の受賞歴を持っています。 川村成氏の手織りの絣織物はファッショナブルでありながら高級でエレガントな雰囲気を漂わせています。綾織の絣織物が持つ工藝の風格と、洗練されたカラーリングとデザインは、歴史的な町並みから近代的なビルの立ち並ぶ都会の景観にも違和感なく溶け込みます。その生地目の斜めに走る綾織の肉厚感と手織りのしなやかさが生み出す締め心地の良さが特徴です。
- 腰原淳策
腰原淳策さんは、父である新一さんから受け継いだ手描き友禅の「腰原きもの工房」を1947年から続けています。東京友禅の伝統技法を受け継いだ後、腰原淳策さんは職人による分業制に頼らず、一貫して工房で作品を制作することにこだわりました。これにより、作家本人の思いが表現される作品が生まれました。 現在は、腰原淳策さんのご子息である英吾さんと妻の信子さんが友禅作家として活動しています。彼らは奥多摩の自然豊かな地で、四季折々の草花や古典柄、幾何学模様、モダン柄などを現代に調和した透明感あふれる彩色で素晴らしい作品を制作しています。
- 岸田竹史
岸田竹史さん、日展「日本美術展覧会」で著名な染織工芸作家でした。彼の作品は日本画のスタイルを取り入れながらも、独自のモダンな世界観を築いており、一枚の絵画を鑑賞しているかのような趣があります。1966年には日展の文部科学大臣賞を受賞しました。また、岸田竹史さんの門下生には、人間国宝である故羽田登喜男さんの長男である羽田登さんや、日展で活躍している丹下雄介さんなどがいます。岸田竹史さんの作品は美術品としても価値が高く、着用するだけでなくコレクションとしても重宝されています。残念ながら、1997年にお亡くなりになりましたので、新しい作品は制作されていません。
- 小島悳次郎
故・小島悳次郎さんは、現在国画会正会員で人気の高い小島貞二さんのお父様であり、昭和の型絵染作家の第一人者でした。昭和17年には芹澤銈介に師事し、その後隣家に移り住み、深く民藝に触れながら沖縄の紅型染め(型絵染め)の技法を身につけました。彼は民芸の枠に囚われず、西洋美術や音楽にも深い造詣を持ち、何度も渡欧するほど傾倒しました。そのエキゾチックな感性や独特の色彩感覚は、今でも多くの人々に魅力として受け継がれています。戦時中の苦難を経験しながらも、彼は独自の研究と創作を続け、後世に残る数々の素晴らしい作品を生み出しました。
- 斉藤光司
唐桟織は、江戸時代後期の「天保の改革」によって大いに栄えました。この技術は、安土桃山時代にオランダやポルトガルから伝わった舶来品を指す「唐」という言葉と組み合わさって命名されました。現在、唐桟織は館山の代表的な織物として知られていますが、その伝来は明治初期にさかのぼります。明治維新により多くの武士が失業した際、東京授産所で唐桟織の技術を学んだ齊藤茂助が館山に移住し、唐桟織の工房を開設しました。この技術は後に民芸運動の父とされる柳宗悦によって絶賛され、全国的に広まりました。その後、唐桟織は昭和47年に文化庁の無形文化財に指定され、昭和59年には千葉県の伝統的工芸品にも指定されました。齋藤光司さんは、茂助の孫であり、柳宗悦の甥である柳悦孝の内弟子として11年間修行し、父である豊吉から唐桟織の技術を学びました。現在、唐桟織の伝統を受け継ぐのは光司さんの息子である齊藤裕司さんだけです。裕司さんは門外不出の技術を広く公開し、唐桟織の魅力を世に広め続けています。
- 坂井修
坂井修さんは、蒔糊技法で名高い人間国宝であった故森口華弘さんに師事し、その技術を受け継ぎました。蒔糊とは、染色技法の一つであり、粘り気の強い糯米の粉、糠、塩、そして亜鉛抹を主原料として蒸し、火入れを繰り返して作られた熱い糊を竹の皮の上に薄く伸ばし、乾燥させて丹念に打ち砕き、大小さまざまな粒に分け、水分を含んだ生地に均等に撒きます。ムラなく撒くためには高度な技術が必要です。その後、程よく乾燥させて引き染めを行い、糊を流水で洗い流します。手間のかかる工程を経て完成した作品は、文様染と薪糊の組み合わせ、そして薪糊の粒の大小を使って濃淡や景色を表現し、非常に美しい作品となります。坂井修さんの作品は、四季折々の草花に風や光、空気などを織り交ぜ、その情景を文様として表現し、現代の生活に映えるような作品を制作しています。現在、坂井修さんは日本工芸会の正会員として活躍し、平成23年には京都府の無形文化財保持者として認定されました。華弘さんから引き継がれた薪糊技法は、多くのファンの心を魅了しています。
- 坂井教人
坂井教人さんは、日本工芸会の正会員であり、「鎌倉友禅」の創始者でもあります。彼は鎌倉に工房を構え、従来の友禅とは異なるスタイルの「鎌倉友禅」を生み出しました。教人さんがこの道を歩み始めたのは、昭和33年の伝統工芸展で友禅の芸術性に魅了されたことがきっかけだったそうです。「鎌倉友禅」は墨を特徴とし、古典柄にとらわれることなく日々のインスピレーションを新しいデザインに取り入れています。この作品には、坂井教人さんがモットーとする「鎌倉友禅は気品」という言葉通り、凛とした清澄な雰囲気が漂っています。現在、教人さんのご息女である三智子さんも教人さんから技術を学び、作家として活躍しています。彼女は伝統的な文様だけでなく、女性ならではのビビッドな色彩や可愛らしいモチーフを取り入れ、「創って愉しく、纏って楽しく」という合言葉のもとで創作活動を行っています。
- 佐藤房子
佐藤房子さんは独学で染織を始め、特に地元北海道の植物であるラベンダーやハスカップ、アロニアなどで草木染めをした糸を使用して反物を織り上げています。30年以上もの歳月をかけて完成した紬作品は、「えぞ織」と名付けられました。北海道では、染織から織りまで手がける方は非常に少なく、佐藤房子さんはその中でも数少ない作家の一人です。北海道の植物で染められた糸で織られた作品は、鮮やかでありながらも優しい色合いで、見る人の心を温かくすることで知られています。現在、「えぞ織」は佐藤房子さんによってのみ制作されており、非常に希少な織物として高く評価されています。
- 佐藤百恵
佐藤百恵さんは青森県弘前市で生まれ、女子美術大学の産業デザイン科工芸(染色)専攻を経て、柚木沙弥郎氏に師事しました。彼女は1990年からグループ展に参加し、さらに1996年からは個展も毎年日本全国各地で積極的に開催しています。2017年には国画会の準会員に推挙されました。 佐藤百恵さんの作品は題材や意匠が自由で奔放であり、その特徴が他の型染めとははっきりと異なり、魅力的です。彼女のデザインはまるで物語の一場面を切り取ったようなものであり、写実的ではなく感性の世界を表現しています。繊細なタッチで描かれる絵心豊かなデザインの色彩は、佐藤百恵さん独特の世界観をお楽しみいただけます。
- 沢田明子
沢田明子さんは、着物の工芸作家として広く知られています。沢田明子さんは染色技法を用い、落ち着いた実写的な草花などの絵画調のデザインが特徴の本加賀友禅作家です。また、渦状や一定の形で反復する植物の茎や蔓、葉や花などを組み合わせたアラビア風の植物文様、アラベスク模様を用いた個性的な作風も特筆されます。加賀友禅は希少で高価な訪問着として知られ、結婚式やお宮参り、入学式やお茶会などの特別な日の着物として人気があります。
- 塩入守治
塩入守治さんは長野県上田市出身で、芹沢銈介氏に師事し、国画会の会員である型絵染作家でした。塩入守治さんの作品では、型紙にはカキの渋で張り合わせた和紙が使用され、全面に絹の紗(網)が漆で張り付けられ、こぬかともち粉で練った糊で型付けされ、それを染めるという手法が採用されています。かつては型付け専門の職人も存在しましたが、塩入守治さんは図案を型紙に描き、一刀一刀を丹念に彫り上げ、全てを一人で制作しました。彼は1994年に他界しました。
- 芝崎重一
群馬県伊勢崎市の静かな住宅地に、芝崎重一・圭一親子の工房があります。彼らは「座繰り」と呼ばれる機械に頼らない糸作り、草木による染め、手機による織りを通じて、着心地を追求し、糸に対する熱意を具現化しています。 芝崎重一さんは、繭から丁寧に手で引き上げた赤城の座繰り糸を使用し、天然染料による染色、そして高機による手織りで、美しさと着心地の良さを追求してきました。伊勢崎における織物の伝統を掘り起こすため、江戸時代の裂や資料から糸の研究を始め、今の座繰り糸を用いた紬へと進化させました。 赤城山の麓で生まれる芝崎さんの糸は、機械で引くのではなく手作業で丁寧に扱われ、糸にたくさんの空気が含まれ、織物になった際の着心地に影響を与えます。座繰り紬は、すべて草木によって染められ、竹筬が使われた手機で織られます。 芝崎重一さんの座繰り紬は、座繰り糸特有の艶やかな質感と、光によって表情を変える深い色、草木染の自然な色味を持ち、軽く扱いやすい着心地が特徴です。染織家としての彼らの作品は、着物愛好家から大変な人気を博しています。
- 芝崎圭一
芝崎圭一さんの作品は、群馬県伊勢崎市の工房で染織されています。彼の紬は全てが手仕事であり、座繰りと呼ばれる糸作り、草木による染め、手機による織りがその特徴です。 「座繰り」とは、座って繭から糸を手繰りながら巻いていく作業です。芝崎圭一さんはゆっくりと力をかけずに糸を引き、手間をかけて良質の糸を作ります。80個から200個の繭から糸を引き出し、着るものとしての織物に相応しい糸作りを行っています。 芝崎圭一さんの作品は、こだわりの糸で織られており、伸縮性がありながらもシャキッとした風合いを持ちます。そのため、着る人の身体に寄り添いながら最高の着心地を提供しています。
- 下平清人
下平清人さんは、1936年に長野県飯田市で生まれ、1956年に重要無形文化財保持者(人間国宝)として認定された芹沢銈介氏に師事しました。芹沢氏が確立した「型絵染」は、型彫り、型つけ、染めといった工程が一人で行われる独特の手法です。20年以上にわたり芹沢氏のもとで修行したことから、彼の一番弟子と称されることもありますが、型絵染に関わり60年以上が経過し、現在も那須塩原にある工房で個性的な着物や帯を制作しています。
- 祝まな
祝まなさんは、型絵染の作家です。彼女は型絵染の人間国宝である芹沢銈介さんの「民芸運動」に感銘を受け、型絵染を学びました。また、沖縄の紅型にも影響を受け、さまざまな作品を制作しています。色数を絞った落ち着いた作品もありますが、祝まなさんの作品といえば、華やかで彩り豊かで丸みのあるデザインが特徴です。祝まなさんの落款も、お名前に花が添えられた可愛らしいものであり、愛らしさを感じさせます。
- 城間栄喜
城間栄喜氏は、沖縄県の紅型師であり、近現代の紅型の名匠でした。彼は沖縄県指定の無形文化財「びん型」の保持者でもあります。1908年に那覇市久米村の城間家に14代目として生まれ、小学校を卒業すると直ちに紅型染めの家業を手伝うようになりました。 しかし、紅型は不景気や戦争の影響で衰退していく中、城間栄喜氏は貧困の中で紅型の制作を続けました。染料の入手も困難な状況でしたが、彼は粘り強く技術を磨き、紅型染めの技術の保存と普及、継承を願い、1947年には「城間紅型工房」を設立し、1952年には「琉球紅型振興会」を設立しました。 沖縄の伝統的な染織りである紅型は、海や波、風景などを描いた芸術品であり、その鮮やかな色彩は少ない原料を巧みに混色させることや配色によって複雑多様な美を生み出しています。その独特の色彩は、本土の帯や着物とは異なる魅力を持っています。 城間栄喜氏は1992年に84歳で亡くなりましたが、彼の功績は紅型の世界において永遠に記憶されています。
- 新道弘之
新道弘之さんは、学生時代から藍染に魅了され、50年以上にわたって藍染めの研究と作家活動を続けてきました。1980年代には、昔ながらの里山風景を残す京都・美山に大きな茅葺きの民家を改装し、「ちいさな藍美術館」を設立しました。 この美術館では、一階の工房ギャラリーでは独自の染め技術による作品や制作風景を、二階の展示場では世界各国の貴重な藍染作品を鑑賞することができます。彼の染色方法は、灰汁、石灰、酒、蒅(すくも)麩(ふすま)などの天然素材のみを使用し、染めた後の廃液は畑の肥料として再利用されています。 新道弘之さんの作品は、染めたての鮮やかで澄み切った青から古布の柔らかな深い青までさまざまな藍色の表情を見せ、その美しい色彩を楽しむことができます。美しい水と豊かな自然に恵まれた美山で、新道弘之さんは藍染文化を守り、育て、世界中に広めています。彼の藍染めの技術と才能は、着物や帯に限らず、布のキャンバスに様々なデザインを生み出し、国内外で高い評価を受けています。
- 砂川健一
砂川健一さんは伝統工芸士であり、松綱染工所の四代目として活躍しました。松綱染工所は明治42年に創業され、江戸小紋の染めを100年以上にわたって続けてきた、数少ない工房のひとつです。極型とは、「極鮫」「極通」などの小紋柄の中で特に精緻な柄を指し、細かい柄ほど職人の技術が問われます。松綱染工所は常に高度な技術を維持し続け、その技量と品質には定評があります。現在は、伝統を守りながらも革新を追求する五代目の砂川裕孝さんが工房を引き継いでいます。
- 曽根武勇
西陣織といえば、帯の産地としてよく知られていますが、実は織物の着物も作られています。その代表的な着物が「御召」と呼ばれるものです。御召は染めた着物とは異なり、また紬の風合いとも違います。色柄によっては、お茶やパーティの席にふさわしい装いとしても、街着としても楽しむことができます。 御召を作る数少ない作家のひとりが曽根武勇(そねぶゆう)氏です。曽根武勇氏はその分野の第一人者であり、曽根武勇氏の作品は染の着物では表現できない独特の織物技術を持ち、フォーマルな場からカジュアルな場まで幅広い着物を提供しています。
- 篠原晃代
篠原晃代さんは、故・鎌倉芳太郎氏に師事し、戦火で途絶えた琉球紅型の技法「おぼろ型」を復元しました。その技法を継承し、作品を制作していました。おぼろ型は、2枚以上の型紙を使用し、複数回染めを重ねる手法です。手間がかかりますが、複雑な模様や色の重なりを表現でき、柔らかく優しい作品を生み出します。篠原晃代さんは、日本工芸会正会員としても活動しましたが、2022年に亡くなりました。現在は義理の娘である優子さんがおぼろ型染の作品を製作しています。
- 次呂久幸子
- 塩沢照彦
- 龍村光翔
龍村光翔(本名:龍村謙)さんは、初代龍村平蔵さんの息子として1905年(明治38年)4月28日に大阪市で生まれました。1929年(昭和4年)に東京帝国大学文学部美術史を卒業し、同年から翌年にかけて外国を旅行しました。帰国後は織物製作と染織史の研究に専念しました。1966年(昭和41年)には二代目平蔵を襲名し、龍村織物美術研究所の所長として活躍しました。1979年(昭和54年)に享年74歳で亡くなりました。 龍村光翔さんは名物裂の研究にも取り組み、先代の想いを受け継ぎ、「独創と復元」の精神を基に、美の要素を取り入れた図案による創作織物を多数手がけました。伝統的な西陣の中で、「温故知新を織る」という美の追求に情熱を注ぎました。糸の性質を巧みに利用し、立体感を生み出すことで帯に彩りと奥行きを与え、緻密さと大胆さを兼ね備えた美的要素が龍村光翔さんの作品の魅力の一部です。
- 龍村晋
龍村晋(たつむらしん)さんは、帯の染色工芸作家であり、父である龍村平蔵さんは古代裂(こだいぎれ)の復元における第一人者で、着物の染織工芸の巨匠でした。 龍村晋さんは、龍村平蔵さんが正倉院の古代錦をはじめ多くの名物裂を復元し、美術織物を創作した三男であり、父の著作権を引き継ぎ、その研究と復元制作を継承しました。 父である平蔵さんのもとで匠の技と感性を学び、染織の技術と感性を磨きました。彼はユーラシア大陸を横断して意匠の題材を追求するなど、帯の研究に熱心に取り組みました。彼自身も90年の生涯を帯の制作に捧げ、日本はもちろんシルクロードや西欧から広く題材を取り入れ、「伝匠名錦」と呼ばれる独自の帯を生み出しました。龍村晋さんが生み出した「伝匠名錦」は、高い芸術性を有する帯として広く知られています。
- 龍村光峯
織物美術家の龍村光峯(本名:龍村順)さんは、1946年に宝塚市で生まれました。祖父は初代龍村平蔵さん、父は二代龍村平蔵(龍村光翔)さんです。早稲田大学を卒業後、国際交流基金に勤務し、退職後の1976年に後継者として京都に戻り、龍村平蔵織物美術研究所を設立しました。1982年には、「龍村光峯株式会社」と改称し、代表取締役に就任しました。1993年には皇太子妃雅子妃殿下の御婚礼御支度品の制作を手掛け、1994年には日本伝統織物保存研究会を設立し、理事長に就任しました。2019年に73歳で亡くなられました。 龍村光峯さんは、日本最高峰の美「錦」を極め、古代裂の復元や伝統技術の継承と保存、職人育成などに幅広く力を尽くしました。錦織は中国から日本に伝わった高機を用いて手織され、多彩で精緻で豪華絢爛な絹織物です。彼は刺繍や後染めの技法を使わず、多彩な先染めの絹糸や金銀糸を用いて織り上げました。配色や光、角度によって変化する錦の伝統織物は、品格と趣きを感じさせてくれます。
- 千葉あやの
千葉あやのさんは、「正藍染」の重要無形文化財保持者であり、人間国宝に指定された着物作家でした。千葉あやのさんが行う「正藍染」は、自然の温度で藍を発酵させることで生まれる暖かみのある色彩が特徴の草木染めの技法です。彼女は1889年に宮城県栗原郡に生まれ、幼少期から機織りの技術に優れていました。1909年に千葉家に嫁いだことをきっかけに、義母から藍染めの技法を学び、1955年には「正藍染」の保持者として指定されました。 「正藍染」の技法は、藍・麻の栽培から糸作り、染め、機織りまで、全ての工程を1人で手掛けます。現在も「正藍染」の人間国宝は千葉あやのさんただ一人であり、彼女の自家製作体制と高度な技術力は高く評価されています。彼女が手がける作品は全て手作業で行われ、素朴で優しい風合いが特徴です。 千葉あやのさんの麻織には、神事に用いられる大麻が使用されます。また、「正藍染」は自然発酵で染められるため、染めが行われる期間は非常に短く、作品は非常に貴重です。現在、千葉あやのさんの技術は彼女の娘である千葉よしのさんと、孫である千葉まつ江さんによって受け継がれ、まつ江さんが「正藍染」の着物を制作しています。
- 千葉よしの
千葉よしのさんは、日本最古の草木染「正藍冷染」を人間国宝であった母・千葉あやのさんから学んで受け継ぎ、100歳近くまで制作活動を続け、後継者に技術を伝承してきました。現在は千葉まつ江さんがその使命を引き継いでいます。 正藍冷染は、常温で染める独特の技法であり、千葉家以外ではあまり見られないものです。この技法では、熱を加えずに発酵した藍を使って染めます。気温や湿度との相互作用を考慮しながら作業を進めるため、その過程には独自の面白さがあります。千葉家では、藍の育成から染める作業までを一貫して行っています。 1959年には、千葉あやのさんの娘である千葉よしのさんと孫娘の千葉まつ江さんを含む5人が正藍染技術保存伝承事業を実施し、彼女らが正藍冷染の後継者として認定されました。この技法は、栗原市栗駒文字の千葉家が伝承しており、日本最古の染色技法の一つとしてその名を刻んでいます。
- 徳田義三
徳田義三さんは西陣の機屋に1906年に生まれ、糸染めの技術や織り組織の研究を積み重ねながら、西陣の織屋を渡り歩きました。型友禅や織物の図案家として活躍し、1955年には正倉院文様に魅了されて纈纈(しょうざん)の研究を始め、1979年にはその復元に成功しました。彼の作品は、しょうざん、帯屋捨松、洛風林など多くのメーカーや機屋によって制作されましたが、従来の枠にとらわれることなく、徳田義三さん独自の世界観で作られていたため、呉服業界に大きな影響を与えました。1992年に亡くなりましたが、徳田義三さんの図案は今もなお斬新であり、後世に受け継がれることでしょう。
- 築添純子
築添純子さんは1945年に兵庫県で生まれました。1968年には人間国宝である志村ふくみさんに師事し、染織を学びました。その後、伝統工芸展で何度も入選するなど、才能を発揮しました。1986年には日本工芸会正会員に認定されました。 築添純子さんの作品は、エジプト綿やトルファン綿の100〜120番の木綿糸を素材とし、植物染料で染色されたものを平織りで仕上げられます。彼女は経糸に色の構成の万能性を追求し、緯糸に心象風景を織り込んでいます。その作品は心安らぐ草木染の趣きを持ち、洗練された極細の糸で織り上げられた美しい絣が特徴です。絹の紬とは異なるしっくりとしなやかな軽い着心地も魅力のひとつです。
- 田中キヨコ
田中キヨコさんは重要無形文化財技術保持者です。重要無形文化財などに認定されるためには、一定のルールがあります。重要無形文化財「久留米絣」の認定条件は、次の3つです。 1.手括り(てくくり)による絣糸を使用すること。 2.純正天然藍で染めること。 3.なげひの手織り織機で織ること。 田中キヨコさんの作品は木綿らしい藍染の美しさ、絣の立入り柄、奥深しい手仕事の美しさの中に、優雅さを感じさせる作品です。
- 友利玄純
沖縄県には、各地域の歴史と地理的条件を背景に、数多くの伝統工芸が生み出されてきました。これらの工芸品は、14世紀から16世紀にかけて、日本、中国、東南アジアの文化や技術、技法を取り入れながら、個性豊かな伝統工芸品として今日まで受け継がれています。 友利玄純さんは、重要無形文化財保持団体である宮古上布保持団体(代表は新里玲子さん)にて織物業を営んでいました。宮古上布は、作業を分業で行いながら、精緻な絣の紺上布が特に有名です。その工程の中で、友利玄純さんは製造者として技術的な役割を担ってきました。彼は70年以上にわたる沖縄タイムス社主催の総合美術展に参加し、1974年の第26回では沖展賞を受賞しました。また、1979年の第26回日本工芸会展にも出展し、その功績を後世に残しました。
- 立花長子
立花長子さんは、洋画家を志して学び、その後、昭和12年に芹沢銈介さんに師事しました。立花長子さんは主に「萌木会」や「このはな会」で活動し、染色作家として特に有名です。昭和14年には国画会工芸部で入選し、その芸術的才能の高さが認められました。
- 長艸敏明
長艸敏明氏は京繍伝統工芸士として知られています。1948年に京都西陣で京刺繍職人であった父・長艸芳之助氏の次男として生まれ、立命館大学を卒業後、日本刺繍・京刺繍の世界に足を踏み入れました。 能衣装や着物、帯などの作品を手がけると同時に、祇園祭の水引幕の復元新調や各地の祭事の装飾品の修復・復元なども行う、京繡の第一人者です。タペストリーや掛け軸、屏風などにも幅広く手を広げ、またエルメス本店のディスプレイ制作など、海外でも活躍しています。 京繍は反物に直接針と糸を通して表現されるため、染や織にはない立体的な表現が可能です。長艸氏の手による京刺繍は、その繊細さと雅な美しさで知られています。
- 中島清志
中島清志さんは塩沢紬の伝統工芸士であり、国指定重要無形文化財である越後上布や小千谷縮布技術保存協会の制作者として、伝統的な織物を守り続けています。 中島清志氏の作品には地機や雪晒しなどの要素が含まれており、一部の作品は文化財指定のものよりも硬さを感じるかもしれません。しかし、中島さんの越後上布は織り上がりに薄さとしなやかさを備えており、彼ならではのきめ細やかで均一な美しさが特徴です。
- 永田いすず
永田いすずさんは赤城の節糸に魅了され、表情豊かな草木染手織紬を制作しています。川島テキスタイルスクールで染織を学び、地元福井でアトリエ優布香を開設しました。日本染織作家展などで数々の受賞歴を持ちます。 草木染めの大きな魅力は、経年変化を楽しめることと、同じ草木の素材でも摘出時期や浸出時間によって一つひとつに個性が出ることです。これによって自然な色合いを楽しむことができます。彼女の作品は手織ならではのふわっとした軽さと、草木染めの優しく美しい色合いが特徴です。
- 中村勇二郎
中村勇二郎さんは1902年に三重県で生まれました。中村勇二郎さんの父親は型紙業を営んでおり、幼少期から中村さんは父親の手伝いをしていました。高校を卒業した後、彼は父親のもとで本格的な修業を積みました。その過程で彫刻刀の製作も手がけ、手作りで3000本以上の刀を作りました。彼の技術はますます高まり、文様を生み出す際の自在性も増していきました。 中村勇二郎さんの実力は高く評価され、1955年には人間国宝初代に認定されました。人間国宝として認定された後も、人間国宝新作展に毎年大作を発表し続けました。その後、当時の皇太子殿下に「瑞雲祥鶴の図」を献上し、以後も皇室に型紙を献上し続けました。その活動は皇室から「神業である」とのお言葉をいただくほどでした。
- 西尾翠峰
本加賀友禅の物故作家、西尾翠峰氏は百貫華峰氏の系統を引く作家でした。加賀友禅技術保存会の正会員であり、風景画でも優れた才能を発揮していました。 東京の美研荘で坂井教人さんや百貫華峰さんとともに学び、川崎一与四(是空)さんや図案家の中井英三さんに師事しました。ろうけつ染などの技術も習得した後、故郷に戻って加賀友禅作家として活動しました。奥様の西尾陽光さんもまた加賀友禅作家であり、夫婦揃って加賀友禅の世界で活躍していました。
- 新田秀次
米沢の名門、新田家は紅花染めの代表として知られています。初代新田留次郎氏は、上杉景勝公とともに越後から米沢に移り住み、明治17年に新田を創業しました。その後、三代目の新田秀次氏が昭和38年に最上紅花の復興・研究に取り組み、四代目の新田英行氏によってさらに発展しました。 新田家は品評会で多くの賞を受賞し、米沢袴地の代名詞となりました。二代目の新田熊雄氏は、絽袴などの新製品を開拓しました。三代目の秀次氏と富子さんは昭和38年に紅花と出会い、その美しさに魅了されました。以来、紅花染めに情熱を注ぎ、自らの手で美しい色を染め続けました。四代目の新田英行氏は、作品づくりにこだわり、染めから織りまで一貫して生産を進めました。 冬の米沢では、紅花染めは特に厳しい寒さの中で染められる色が美しいと言われています。新田家の研究と努力から生まれた織物は、百色の色相を重ね染めによって表現し、美しさを放っています。現在、五代目の新田源太郎氏もその精神を受け継ぎ、ものづくりに励んでいます。
- 根津美和子
根津美和子さんは、沖縄で多和田氏に師事し、首里織の歴史と技法を学びました。その後、独自の表現としてこれらの技法を活かし、特に着用を意識したデザインや色彩、構成にこだわった作品を制作しています。彼女の作品は、着る人がより美しく、心地よく感じられるように配慮されています。 現在は徳島県で工房を開設し、国画会会員として活躍しています。以下は彼女の主な経歴です: 1988年: 青戸柚美江氏に師事(島根) 1990年: 多和田淑子氏に指導を受ける(沖縄) 1992年: 徳島で工房を開設 1993年: 国展に初入選(以降6回入選) 2001年: 工芸奨励賞受賞2001年: 工芸奨励賞受賞 2002年: 国画会準会員となる 2010年: 国画会正会員に昇格
- 野口真造
染色家であり、大彦染繍研究所の所長である野口真造氏は、江戸時代の刺繍の名家である大彦の二代目にあたります。明治25年2月11日に東京の日本橋で呉服商野口彦兵衛氏の次男として生まれました。中学卒業後、父親である彦兵衛氏の教えを受け、染色の考案や製作などの仕事に専念しました。 自らの仕事を「利益追求」ではなく、「技術の育成」に捧げ、友禅職人の育成に力を注ぎました。それは、大彦染色工場を大彦染繍美術研究所に改装し、自宅に職人の養成所を設けることから始まりました。彼は「下絵」「糊置き」「色挿し」「刺繍」といった友禅の仕事に不可欠な技術を、自らの手で育てることを始めました。 野口氏は古代衣裳の染色研究及びその復元に取り組み、昭和3年にこれを初めて華族会館で発表しました。その後、染色工芸の創作に従事し、昭和26年から10年間は無形文化財審議会の委員を務め、昭和42年には勲四等瑞宝章を受章しました。 また、戸板女子短大の名誉教授や日本染色美術協会の会長、社団法人日本きもの文化協会の会長、日本風俗史学会の顧問、日本工芸会の監事などを歴任しました。皇室の慶事の調整や大劇場の緞帳や大パネルなども手がけ、友禅染と日本刺繍を駆使して独自の美術的作品を数多く生み出しました。
- 野口彦太郎
東京の呉服商「大彦」は明治8年に創業し、3代目の野口彦太郎氏は祖父と父から大彦の染繍技術と方向性を受け継ぎました。100年以上の歴史を誇り、彼は伝統的な意匠だけでなく、手書き友禅の技術と日本刺繍の精緻さを兼ね備え、西洋趣味的な要素も取り入れた見事な作品を生み出しています。 大彦の友禅染と日本刺繍を融合させた絵画的な作品は、独自の世界観を持ちながらも時代に即したセンスを感じさせます。大彦の伝統を守りながらも、時代に合った作品を展開し続けています。現在、その精神と技術は長男である4代目野口真太郎に引き継がれています。
- 野村静枝
野村静枝さんは若くして佐賀錦の技術を祖母から学び、独自の技法を編み出しました。特に、皇后陛下(当時の美智子妃殿下)のローブデコルテのデザインを手がけたことで知られています。その後、大阪万国博覧会の貴賓室インテリアパネル制作などに携わり、佐賀錦の作品を幅広く展示しました。 野村静枝さんの作品は各地の展示会で高い評価を受け、皇后様の御召し物をはじめとする多くの作品を手がけました。そして、彼女の娘であり愛弟子でもある野村由美さんが後を継ぎ、野村静枝佐賀錦の伝統を守りながら活動を続けています。 野村静枝さんは既にこの世を去っていますが、彼女の遺産は娘の野村由美によって引き継がれ、皇后様の御用をはじめとする重責を担いながら、佐賀錦の伝統を守り、作家としての活動を続けています。
- 野村半平
野村半平氏は明治37年に結城市で生まれました。高等小学校を卒業後、結城紬の職人の道に進みました。戦中の奢侈禁止令が出された際も、結城紬を守り続け、国の重要無形文化財指定に尽力しました。彼は生涯を結城紬に捧げた稀有な方です。 指定の要望を断り続けたという逸話が伝わるほど、野村氏は非常に希少な真綿糸(160亀甲用の糸)に細い麻糸を20%含んで地機で製作して織り上げる作品を生み出してきました。その作品は羽のような軽やかさを実現し、夏の風を感じさせる特別な風合いが特徴です。一反程度の生産に数年を要し、大変手間と時間がかかる究極の織物です。独特な上質な細糸と地機によって生まれるその軽やかな着心地は、他に類を見ない風合いを持っています。
- 中島三枝子
中島三枝子さんは、素材の特性を生かした新しい表現を追求する作家です。彼女は宮古島で宮古上布帯や宮古麻織の反物、お着物の小物などを手織りしています。栃木県出身の中島さんは、23歳の時に初めて沖縄の宮古島織物事業協同組合を訪れ、そこで個人工房に弟子入りしました。 最初の工房では、染織作家としてのクオリティ管理の厳しさや伝統文化の重みを学びました。その後、別の工房で3年半ほどラミーを織り、更に1年半は別の工房で苧麻畑から手績んだ苧麻の工程を学び、独立しました。中島さんの作品は、宮古上布の定番カラーやデザインから一歩踏み出しており、新しいニーズに応えつつ魅力に溢れています。
- 名嘉幸代
名嘉幸代氏は、首里織の熟練した織り手として知られています。沖縄県那覇市で生まれ、首里高校染織科を卒業した後、京都西陣織のぼかしすくい織を学びました。 彼女の才能は数々の賞によって認められており、1979年には沖展に入選し、その後も工芸館祭りや工芸公募展などで数々の賞を受賞しています。特に、1997年には工芸公募展で最優秀賞を受賞し、2003年には伝統工芸士に認定されました。
- 中村澄子
染織作家の中村澄子さんは、八重山上布の伝統を受け継ぐ家に生まれました。彼女の実家である池城家は、曽祖父の時代から八重山上布を織り続けており、曽祖父は琉球王朝時代に人頭税としてこの布を納めていました。 中村澄子さんは池城家の4代目にあたり、父である池城安裕氏から技術を学びました。彼女は海さらしによる自然な白地に伝統的な絣模様を取り入れ、美しい八重山上布を制作しています。 彼女の功績は1991年に沖縄県指定無形文化財「八重山上布」保持者に認定され、数少ない職人の一人としてその名を刻んでいます。
- 中尾公子
- 仲嵩丈江
- 林正機
越後古代紬は、林宗平さんが始めた紬で、縦糸、緯糸も草木染の手紬の真綿糸を使用し、手織りで丹念に織られています。この紬は、通常の本塩沢紬とは全く異なる色柄の帯を特徴としています。 宗平さんは好奇心旺盛なチャレンジャーであり、全国各地の織物産地を訪ね歩き、各地の織物を熱心に研究しました。遠く奄美大島まで足を運び、泥染めや大島紬独特の絣も研究しました。一方で、文化財である越後上布を大切に守り伝えると同時に、草木染めで独自の世界を切り拓いていきました。 そのチャレンジ精神と探究心は、息子の正機さんにも受け継がれました。正機さんも色へのこだわりが強く、生み出す色は透明感があり明るいものです。彼は「同じ色は二度と出せない」と言い、その時出た色を一期一会の気持ちを込めて丁寧に染め上げます。 現在、林工房は息子の秀和さんが引き継ぎ、受け継がれています。
- 原田麻那
原田麻那さんは、めがね織の第一人者であり、吉野間道の先駆者的存在とも称され、白洲正子さんとの交流でも知られる著名な染織作家です。両親が画家である家庭に育ち、感受性豊かに育まれました。おばあさまが織りの達人であったことも影響し、20代後半で染織に興味を持ち、柳悦孝氏に師事して染めと織りを学びました。彼女の作風は独自の工夫が加えられており、手織りの味わいある個性的な作品で国画会などで活躍しました。 独創的なスタイルのデザインや色使いは、万葉集の詩や南伊豆の海、雅楽の羅陵王や王鐘調、シルクロードのイメージなど、様々な要素からインスピレーションを得ています。これらを頭の中で膨らませ、抽象化された形で織り表現することが彼女の作品の特徴です。 生涯を通じて染織を仕事とし、50年以上にわたり独創的な個性と高い完成度を持つ作品を創作し続けました。彼女の作品は後継者の目標となるほど素晴らしく、国内外の美術館でも高い評価を受けています。
- 樋熊哲也
樋熊哲也氏は、草木染と手絞りという日本古来の染色技法にこだわり、日本画を基調とした新しいきもの美を生み出し続ける作家です。現代日本を代表するきもの作家のひとりとして広く知られています。 1952年に新潟県十日町市で生まれ、染色及び日本画を学んだ後、植物染料草木ローケツ染めの研究を積み、辻が花染めの技法を取り入れた作品の制作に専念しました。1985年には、日本画を基調とした新しい作風を確立し、日本百景の制作研究に取り組みました。 彼の作品は、きものサロン冬号などで幻想辻が花作家として紹介され、1992年には創作活動20周年を記念して銀座東武ホテルで個展を開催しました。以後、彼は演歌歌手の中村美津子さんや女優の三田佳子さんなどの衣装制作にも携わり、その技術と才能が高く評価されました。
- 百貫広樹
百貫華峰氏の愛弟子である百貫広樹氏は、華峰氏から四季折々の草花や美しい風景を学びました。彼の作品はまるで絵画のようであり、伝統を守りつつも加賀を代表する作家として高い評価を受けています。広樹氏のセンスと手の込んだ技術による豪華な作品は、非常に貴重です。また、彼の作風は色彩を抑えた落ち着いた配色であり、代々受け継いで着用することができ、重宝されると考えられます。
- 平山八重子
東京都杉並区で生まれた平山八重子さんは、幼少期から織物に興味を持ち、大塚テキスタイルでOLとして働きながら織物の世界を探求しました。日本全国の織物産地を訪れ、著名な染織家たちから学びました。特に人間国宝である千葉あやのさんや後に恩師となる宗廣力三先生の指導を受け、郡上の研究所で染め織りに没頭しました。宗廣力三先生から受け継いだ厳しくも誠実な姿勢は、彼女の作品にも反映されています。彼女の作品は独自の技術と美しさで注目され、数々の賞を受賞しました。現在は日本工芸会正会員として活動し、工房「萌(ほう)」で手織教室を主宰しています。
- 深石美穂
深石美穂さんは、沖縄の美しい自然に魅了され、夫と共に「からん工房」を立ち上げました。彼女は日本工芸会正会員であり、川平織をはじめとする独自の織物を制作しています。福島県出身の彼女は、武蔵野美術大学で商業デザインを専攻し、その後は沖縄の伝統技術を学びました。彼女の作品は、古典的な市松模様を現代性溢れるデザインに昇華させ、新たな可能性を示しています。彼女のキャリアは多くの受賞歴に彩られ、日本工芸会正会員としても活躍しています。
- 藤林徳扇
300年以上にわたり、京都市北区鷹ヶ峰の旧藤林町にある「藤林徳扇」は、宮家や宮内庁御用達の錦の御旗を手がける名門です。この地には「光悦村」があり、本阿弥光悦が開設しました。ここでは王朝趣味を反映した帯や着物が制作され、また「徳扇コスモ・アート」と呼ばれる絵画も世に送り出されています。藤林徳扇はユネスコ・パリ本部認定のユネスコ・グリーティング・アーティストとしても選出され、世界的に高い評価を得ています。彼らの創作理念は「優雅」「格調」「貴品」、そして「見つめられる着物」であり、本金糸や本プラチナ糸などを使用しています。また、五大宝石をパウダー状にして着物やアートを創作する特殊技法も取り入れています。藤林徳扇は1680年に錦織を創業し、現在まで12代にわたり続く世襲名でもあります。彼らは京都・鷹ヶ峰で宮内庁御用達の錦の御旗を生産し続けています。
- 藤村玲子
藤村玲子さんは染織家として活躍し、琉球王国時代の紅型の復元や後進の育成に尽力しました。若くして故・城間栄喜氏に師事し、染めの技術を学び、その類まれな才能を発揮して20代で独立しました。首里に工房を持ち、琉球紅型の復元や舞踊衣装の制作などに携わりました。藤村さんは伝統工芸展や沖縄タイムス芸術選賞などで数々の賞を受賞し、1997年には県指定無形文化財「びん型」の保持者に指定されました。彼女の活動は、地域文化の継承と発展に大きな貢献を果たしました。
- 古澤万千子
古澤万千子さんは東京・浅草で生まれ、東京都立第一高等女学校在学中から東京芸術大学の教授である久保守氏に師事し、5年以上にわたってデッサンと油彩を学びました。その後、国画会会員である森義利氏から染色の基本技術を学び、さらに森氏を通じて型絵染の芹沢銈介氏や日本民藝館館長の柳宗悦氏との交流を得ました。昭和32年に国画会工芸部に初出品し、昭和35年には国画会新人賞を受賞し、その後も昭和38年に国画会会友優作賞、昭和41年から52年まで12年間にわたって日本民藝館新作展の審査員を務めました。結婚を機に昭和46年に大分県大分市佐賀関町に移り住み、大分の自然や風景を題材にした作品も手がけました。 古澤万千子さんは天然染料のみを使用し、化学染料を使わないこだわりを持っています。彼女の作品は派手で大胆なデザインでありながら、優しく温かみのある色合いが特徴です。
- 古田芳彩
- 樋口隆司
縮織とは、撚りの強い緯糸を使用して織り上げ、ぬるま湯で揉んで縮ませ、布全体にしわを表す織物のことです。この縮織を使った着物の代表格には、雪国の風土に根ざした麻織物である越後上布や小千谷縮があります。小千谷縮屋の六代目である樋口隆司氏は、重要無形文化財である「小千谷縮」の技法を活かし、絹織物に縮織りを施す「紬ちりめん」を発案しました。彼は全国で多くの個展を開催し、日本工芸会の正会員でもあります。樋口氏の作品は、「花・風・月・雪」などのモチーフを用いて雪国の四季を表現し、遊び心のあるデザインを展開しています。彼の作品は、独自のファッション世界を創造し、色柄が少ないのが特徴です。 樋口隆司氏の代表作には、「小千谷縮」「湯揉み絹縮」「紬ちりめん」の3種類があります。彼は第37回日本伝統工芸展で絽織縮絣着尺「風の道」が入選し、その後も様々な展覧会で受賞歴を積み重ねました。
- 毎田健治
1964年、金沢美術工芸大学日本画科を卒業後、毎田仁郎(日本工芸会正会員)に師事しました。1975年には日本伝統工芸展に初めて入選し、翌年の1976年には日本伝統工芸展染織展で文化庁長官賞を受賞しました。その後、1978年には日本工芸会の正会員に推挙されました。 着物制作に留まらず、友禅技法を洋装や壁画などにも展開しました。特に、国内最大級の手描き友禅緞帳「瑞松彩花」を石川県立音楽堂ホールに制作しました。 加賀友禅は、図案から仕上げまで約15の工程があり、全てが熟練の手作業で行われます。毎田染画工芸では、工房内で一貫した制作を行い、作家が作品の質を高め、時代に合った意匠を最終の仕上げまで責任を持って厳格に見届けています。 彼らは伝統工芸を「古いもの」ではなく「現代へ続くファッションの積み重ね」と考え、加賀友禅のエッセンスを洋装、商品パッケージ、建築装飾など、着物以外のさまざまな創作物に取り入れる挑戦を続けています。 2005年には第52回日本伝統工芸展で朝日新聞社賞を受賞し、2011年には地域文化功労者として文部科学大臣表彰を受けました。その他、多くの個展や展覧会に参加し、後進の指導にも力を注いでいます。
- 毎田仁郎
毎田仁郎氏は1906年に石川県金沢市で生まれ、染織職人として活動しました。 若い頃は健康上の理由から病弱でしたが、手に職をつけるために京都の染め工房で内弟子として修行しました。戦争の悪化により帰郷した後、加賀友禅を代表する作家で人間国宝である木村雨山氏に直接師事しました。戦時中でも加賀友禅の技術を磨き上げ、その腕前を高めました。 加賀技術保存協会が設立され、落款登録が始まった昭和50年代初めに、毎田仁郎氏は加賀伝統工芸士の一人として認定されました。彼の作品は、繊細な糸目糊置きと、基本的な色である「加賀五彩」に忠実な色の使い方(特に「藍色」の濃淡)や「先ぼかし」の見事さが特徴です。
- 真栄城興茂
昭和30年(1955年)に沖縄県の那覇市で生まれました。父親は「琉球美絣」を創始した真栄城興盛氏です。昭和62年(1987年)には美絣工房を設立し、その後には日本工芸会の正会員にもなりました。 真栄城興茂氏は、父親である真栄城興盛氏の後を継ぎ、沖縄の伝統的な染織技術を受け継ぎながらも、独自の道を切り拓いてきました。彼は大学在学中に家業を継ぐことを決意し、沖縄の本土復帰後に見られた粗悪な藍絣の流通に危機感を抱きました。そのため、「本物を伝えていくためには自分が作るしかない」という信念のもと、琉球美絣の制作に取り組みました。 琉球美絣は、伝統的な琉球絣とは一線を画す織物であり、独自の技術と美意識が注がれています。真栄城興茂氏は、父親とは異なる、斬新で品格ある絣模様を追求しました。彼の作品は、沖縄の美しさを伝えながらも、新しい織物の可能性を探求しています。 真栄城興茂氏の制作活動は、沖縄の伝統と現代の美意識を融合させた素晴らしいものであり、彼の功績は広く称賛されています。
- 真栄城喜久江
真栄城喜久江さんは、夫である故・真栄城興盛氏とともに、長年にわたって伝統的な琉球絣の技術研究に取り組まれました。藍甕の製作から染色技術、絣の織り方まで、独自の技法とデザインを駆使して、新しい美しい織物「琉球美絣」を生み出しました。彼らの努力は日本伝統工芸会でも高く評価され、洗練された独創的な個性は一目見てわかります。特筆すべきは、着る人に心地よさを感じさせる高品質な着心地です。真栄城家特有の琉球藍の美しい色合いは、丹念に育てられた藍染料とその深みのある色から生まれます。藍の監育や染色にかける時間と手間、そして藍への愛情が、独自の美しいグラデーションを生み出しています。
- 松井青々
初代松井青々氏は、京都で父である松井元治郎氏の長男として生まれ、本名を新太郎といいます。日本画家の三宅鳳白師に師事し、日本画を学びました。その後、染織の総合デザイナーとして独立し、染織展覧会で多くの賞を受賞しました。 二代目松井青々氏は、初代の息子として京都で生まれ、本名は祥太郎です。高校や大学で日本画を学び、昭和30年頃から父の下で京友禅を修得し始めました。昭和64年には二代目「青々」を襲名しました。現在は、初代の孫である淳太郎氏が三代目「青々」として襲名しています。 「青々」という名前は、松の井の水とともに、松の緑がいつまでも生き生きと続くようにという願いが込められています。作品には絞りや刺繍などが施され、はんなりとした色合いや優しいタッチ、斬新なデザインが特徴です。その卓越した感性と高度な染色技術は代々受け継がれ、京友禅の美しさを現代に表現しています。その作風や美しさは他に類を見ないものであり、幅広い年齢層の支持を集めています。
- 松原孝司
松原孝司氏は江戸長板中形染の作家として知られています。長年にわたり本藍染めを行い、特に「裏変り」と呼ばれる技法で、表と裏を別々の柄に染めることで水玉柄を裏から染める職人技を追求してきました。その緻密な技術は美しい逸品と称賛されています。 彼の藍染めは「Japan Blue」と称される鮮やかな藍色とはやや異なります。徳島産の植物藍を用い、道具や糊、型紙などすべてに天然素材を使用しています。そのため、彼の作品は「本物の手仕事」と称されます。 長板中形染の指定要件には、以下の3つがあります。 伊勢型紙を使用すること 両面糊置きを行うこと 藍を使用すること 長板中形染は江戸時代に発展した染色技法で、型紙を用いて藍で染める手法です。約6.5mのモミの一枚板である「長板」を使用し、大紋(大形)と小紋(小形)の中間の大きさである「中形」を染めることから、江戸中形とも呼ばれます。1955年には、この分野で松原定吉氏と清水幸太郎氏が国の重要無形文化財保持者に指定され、それを機に「長板中形」が正式な名称となりました。
- 松原利男
松原利男さんは、父である長板中形の人間国宝である松原定吉さんからその技術を受け継いだ一人です。日本工芸会の会員として活動し、数々の賞を受賞するなど、後継者として素晴らしい功績を残しています。 彼の藍染めは「澄まし建て」として知られ、その独特の色合いが魅力的です。きりりとした濃い藍色も趣深いですが、透明感のある薄い藍色も同様に魅力的です。この明るく柔らかな色合いは、江戸の粋を伝える藍染めの清澄な美しさを表現しており、着る人を格好良く引き立てる清々しさと瑞々しさを持った作品として、多くのファンを魅了し続けています。
- 松原福与
- 松原与七
- 見留敦子
見留敦子さんは染織作家です。彼女の織物は、縦糸と緯糸の交わりに変化を加えることで微妙な陰影や揺らぎを生み出し、また捩り織の技法を用いて部分的に隙間を大きく開けることでストライプ状の地模様が現れます。 これらの技術はデザイン性を増幅させると同時に、遠目には気付かないほどの織の変化が工芸染織品としての風格を静かに放ち、心にじんわりと響く布へと繋がります。見留敦子さんの作品はしなやかに織り上げられ、シンプルながらも凝りに凝った手仕事が施されており、見る人の目を惹きつける見事な織物です。 1960年に千葉県で生まれ、2000年には渡辺純子氏に師事し、2001年からは小島秀子氏にも師事しました。また、2004年には国展に入選し、座繰り糸による織の公募展では大賞を受賞しました。その後も、2006年と2008年には国展に入選し、2008年にはておりや公募展の日常生活部門賞も受賞しています。
- 皆川月華
日本の染色家、本名皆川秀一さん。友禅の染色図案を学び、都路華香産で日本画を、関西美術院で洋画を学ばれ、友禅染に絵画的手法を取り入れた「染彩」の技法を確立され、染色工芸界のパイオニアとしてご活躍されました。 「染彩」の技法は、友禅に洋画手法を応用し、また京都祇園祭の山鉾に使用される銅掛や前掛などを長年製作されていました。1932年には「山海図」が第13回帝展で特選を受賞し、その後も天然染料や古代染色の研究にも取り組まれました。 作品は美しい花が勢い良く咲き誇り、躍動感に溢れており、ラフな筆使いの模様や丁寧な刺繍など、独特の技法が魅力です。 皆川秀一さんは1892年に京都府京都市で生まれ、数々の展覧会で作品を発表し、その多くが高い評価を受けました。1987年には脳血栓のため京都市左京区の自宅で亡くなり、享年94歳でした。
- 皆川泰蔵
京都府出身の皆川泰蔵氏は、昭和から平成時代にかけて活躍した日本の染織家です。元々の姓は八田でしたが、近代染色の先駆者である皆川月華の長女・千恵子さんとの結婚により皆川姓となりました。 泰蔵氏は日展評議員や日本染色造形協会理事長などを務め、後進の指導にも力を注ぎました。また、鹿児島女子短期大学で教授も務め、現代工芸界での地位を確立しました。彼の作品は京都の祇園祭の鉾にも飾られ、木版画などの額装された作品や屏風などはインテリアとしても人気があります。 泰蔵氏の作品は日本各地の美術館に多数収蔵され、その人気は非常に高いです。彼は京都市立美術工芸学校図案科に入学し、卒業後はろう染め一筋で活動しました。彼の作品は、「ろう染め一筋に歩み染色日本の民家」というテーマのもと、京都や奈良の神社や仏閣、庭園を題材にし、独自の作風を確立しました。 泰蔵氏は装飾性を強調した構図や新鮮な色彩、新技法を駆使し、対象から受けた感動の残像を単純化し、現実の風景を抽象化した作品を数多く制作しました。彼は肺炎のため、87歳で京都市山科区の病院で亡くなりました。
- 皆川千恵子
1924年に京都で生まれた皆川千恵子さんは、皆川月華先生の長女として育ちました。彼女は京都府立京都第一高等女学校および日本女子美術学校を卒業し、日本画科専門部で学びました。 35歳の時に帝展工芸部に出品・入選し、染色家としての創作活動を本格化させました。その後、日展を中心に染色界で活躍し、多くの輝かしい賞を受賞しました。しかし、千恵子さんは日本画家としての活動が中心であり、実際に着物や帯などの作品は少なく、希少価値が高いです。 彼女の作風は、父である皆川月華氏から受け継いだ躍動感や繊細さが見られますが、女性ならではの優しさと上品さも兼ね備えています。彼女は華やかな作品を創作し、その才能と個性で染色界に多大な影響を与えました。
- 宮田あや
宮田あやさんは、昭和時代後期に活躍した織物作家であり、志村ふくみさんにも師事したとされています。彼女の作品は紬糸の輝きと草木染めの深い色合いが見事に調和し、美しい世界観を表現しています。その作品は非常に希少であり、滅多に見ることができませんが、その希少価値は高く評価されています。
- 宮平一夫
宮平一夫氏は、母である人間国宝の宮平初子氏が戦後の壊滅的な状況から本場琉球・首里織の復興に尽力し、幾種もの織技を蘇らせた功績を受け継ぎました。首里織は、14世紀から15世紀にかけて琉球王府の城下町として栄え、高度な染織の技術が発展しました。しかし、明治初期の琉球処分や第二次世界大戦による壊滅的な被害を受けながらも、先人たちの努力と情熱により乗り越え、今もなお人々の心に響く作品が生み出されています。一夫氏は、母親である初子氏からの指導を受けながら、宮平織物工房や沖縄県伝統工芸指導所で織物の研修を積み重ね、その技術と感性で唯一無二の風格を放つ作品を生み出しています。道屯織の美しい光沢や首里織の品格ある佇まいは、彼の作品にも現れ、洗練された装いを楽しむことができます。
- 武藤シズエ
郡上紬は草木染めの技法で知られ、その織り手の多くが女性でした。その中でも、武藤シズエさんもその一人です。しかし、現在ではこの伝統的な織物は織られておらず、そのため郡上紬の作品は非常に貴重です。
- 宗廣力三
岐阜県郡上郡八幡町(現在の郡上市)で生まれた宗廣氏は、郡上地方の若者を育てるために尽力しました。彼は青年団理事として地元の若者を指導し、大陸満洲への開拓にも貢献しました。戦後は郡上紬の再生に情熱を注ぎ、開拓農地を開き、多くの人々が関わることのできる織り物を勧めました。彼の努力により、郡上紬は再び知られるようになり、新たな技法も生まれました。1982年には、その功績が認められて国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。彼の作品は高い評価を受け、美術館での展覧会や個展も開催されました。彼は1989年に75歳で亡くなるまで、紬の研究と後進の育成に尽力しました。
- 村山正夫
村山正夫氏は、「友禅」の蒔糊友禅作家として活躍し、重要無形文化財保持者である森口華弘氏に師事されました。彼は1973年に学業を修了後、森口氏に手描友禅の技術を学びました。1981年には伝統工芸日本染織展で受賞し、同年には日本伝統工芸展に初めて入選しました。以後、数々の賞を受賞し、入選しています。 修業の13年を経て、1986年に独立し、日本工芸会の正会員として活動しています。彼の作品は奥行きがあり、繊細な蒔糊が散りばめられた最小限の色使いながらも豊かな表現力を持っています。村山正夫氏は森口氏の最も優れた弟子と称され、真の実力を持つ作家として高い評価を受けています。
- 恵積五郎
大島紬は明治時代初期から商業的な生産が始まり、大正時代には急速に生産数を増やしました。特に昭和初期には生産数がピークに達し、最大で35万反もの大島紬が生産された記録が残っています。当時、大島紬の職人を目指すことは珍しいことではありませんでしたが、1945年の第二次世界大戦勃発により大島紬の生産は停止し、戦後の1954年まで生産が行われませんでした。 戦後、日本は復興を優先する状況にありましたが、恵積五郎さんは「恵大島紬織物」を創業し、大島紬の伝統を守ることに力を注ぎました。多くの紬製造点が閉鎖される中で、恵積五郎は大島紬の重要性を認識し、その地位を確立していきました。息子である恵美知雄氏も後を継ぎ、恵積五郎さんの技術と想いを受け継いでいます。 しかし、1988年に恵積五郎さんが亡くなり、後継者不足の問題が深刻化しました。現在、恵大島紬織物は閉業しており、営業再開の見通しは立っていません。したがって、恵積五郎と恵美知雄の作品は、現存するものだけが後世に残されています。
- 森健持
染色家の森健持氏は、辻が花による染色制作に特化した専門家です。1955年に京都で生まれ、1977年から故・小倉健亮氏に師事し、10年以上の歳月をかけて辻が花等染色技法を習得されました。1988年には独立し、その後30年以上にわたり精力的に創作活動を続け、個展や伝統工芸展で数々の作品を発表されています。 辻が花染めは、室町時代に確立された染色手法であり、その美しさと独特の趣を今に伝える重要な技術です。絞り染めと彩色を組み合わせることで手描き友禅とは異なる装飾的な表現が生まれ、作品に特有の風合いと品格を与えます。 森健持氏の作品では、絞り染めの生地に墨で描画する「カチン描き」という工程が特徴的です。この方法により、素朴で大らかな風合いと同時に、細かい線による凛とした表情が生み出されます。彩色は一度に一つの色しか染めることができず、複数の色を染める場合には反復して絞り染めを行う必要があります。 森健持氏の作品は伝統的な文様だけでなく、現代的なモチーフや洋画家たちの影響を受けた作品も多く、辻が花染めの新たな表現の可能性を広げる努力を続けています。彼の作品は上品さと優しさを兼ね備え、着る人を華やかで気品のある美しさに導く作品群として高い評価を受けています。
- 室伏弘子
室伏弘子さんは、国画会の準会員であり、型絵染め染色家として活躍しています。室伏弘子さんの作品は、生地から染料までこだわり抜いた型絵染めであり、その個性豊かな作品は一つ一つが独自の世界を築いています。 室伏弘子さんの作品は、紅型や一般的な型絵染めとは異なる独特な世界観を持ち、見る者にリズムを感じさせます。彼女が染め描く花や木の葉、果物などは、絶妙に配置された温かみのある彩色で描かれており、型絵染めならではの味わい深さが魅力です。 生涯にわたり精力的に活動を続けてきた室伏弘子さんは、多くの作品で注目を集めています。彼女の経歴には、東京での生誕から始まり、繊維工業試験場での研修や福島輝子氏に師事するなど、染色の道を歩んできた輝かしい歴史が刻まれています。国画会への入選や奨励賞受賞など、その才能が広く認められています。
- 矢田博
矢田博氏は、加賀友禅の伝統を守り抜き、その発展に貢献した著名な作家の一人です。矢田博氏は昭和初期に土屋素秋氏に師事し、その後は写生を重視したダイナミックな構図と、巧みな図案化による作風で高い評価を受けました。 矢田博氏の作品は、刺繍や金彩を一切用いずに、染めの美しさだけで魅了します。彼の熟達した感性と高度な技法は、加賀友禅の本質を的確に表現しています。
- 谷田部郁子
谷田部郁子さんは岩手県二戸で生まれ、幼少期を自然豊かな環境で過ごしました。山々を眺めながら、広い世界への憧れを抱いていたと言います。大学では東海大学のデザイン学科に進学し、卒業後は一時期企業で働きましたが、やがて染織りの世界に興味を持ちました。 染織作家の小島秀子さんに師事し、その後は川島テキスタイルスクールで技術を磨きました。展覧会での受賞歴もあり、国画会の準会員に推挙されました。しかし、都会での生活の中で故郷を懐かしく思い、岩手県二戸に戻り、「たんたんと工房」を設立しました。 谷田部郁子さんの作品は、自然の情景を織り込んだ温かみのある色彩や、抽象的な表現が特徴です。手織りの作品はまさに芸術品とも言える奥行きを持ち、自然現象やイメージを独自の視点で表現しています。 谷田部郁子さんは、化学染料と草木染めを併用しながらも、染めの過程で生じる曖昧な色彩や、色の向こう側に別の色が見え隠れするような深みを大切にしています。彼女の作品は見て触れることでその魅力が伝わり、素晴らしいと評されています。
- 山岡古都
山岡古都氏は、染色の道を歩み始めた昭和26年から、染色家として数々の作品を世に問い続けました。同時に、草木染めや古代染めの研究者としての知識を持ち、日本の染色界を常にリードしました。山岡古都氏は京都の洗練された技術と沖縄の天然染料の宝庫を行き来しながら、古代染めの再現と新しい染色の可能性を追求しました。 ある時、日本染織名誉会長から「紅型の衰退を危惧し、染色技術の伝承のために尽力してほしい」という要請を受けます。これを受け、山岡古都氏は私財を投じて、昭和48年に沖縄で初めての草木染紅型研究所「首里琉染」を創設しました。 山岡古都氏は装う女性に喜びと感動を与える染色作品を創作するため、京都と沖縄に工房と伝統工芸館を設立しました。古代染めの再現と新しい染色の可能性を模索し、生涯を通じて幅広い活動を行いました。 山岡古都氏の染織技術は、古代の墨を用いた染めに特に注目されます。彼は独自の技術で、墨の力と光沢を絹に表現し、世界でも類を見ない染織技術を生み出しました。山岡古都氏は染色作家としてだけでなく、知識人、文化人、芸術家としても活躍し、染色技術の継承や琉球王国時代の服飾文化の復活など、多岐にわたる活動を展開しました。
- 山鹿清華
山鹿清華氏は、染織美術のパイオニアであり、文化功労者であり、芸術院の会員でした。1885年(明治18年)に京都市で生まれ、西陣織に従事していた兄の影響を受け、小学校を卒業後、織図案家の西田竹雪氏の内弟子となりました。同時に日本画も学びました。10年間の修業の後、当時のトップであった図案家の神坂雪佳氏に師事しました。 明治末期から大正時代にかけて、山鹿清華氏は創作活動を続け、関西図案会や新工芸院、京都図案家協会などの設立に貢献しました。山鹿清華氏は現代のファイバーアートの先駆者であり、広範な染織技術の研究を通じて独自の手織錦を生み出しました。1925年(大正14年)のパリ万国装飾美術工芸博で彼の手織錦「孔雀」はグランプリを受賞し、その後も多くの優れた作品を発表しました。 日展などの審査員を務め、工芸作家の第一人者として認められ、1957年には芸術院の会員に、1969年には文化功労者に選ばれ、1974年には勲二等瑞宝章を授与されました。また、山鹿清華氏は祇園祭の菊水鉾の装飾品を手がけたことでも知られています。彼の手織錦は綴れ織りから進化し、その作品は装飾性と技巧の新しさが融合し、東西をつなぐ綴織芸術の真髄として今日でも称賛されています。
- 山口伊太郎
山口伊太郎氏は、西陣の織匠として知られ、西陣の紋織物制作の第一人者でした。山口伊太郎氏は明治34年(1901年)に京都市・西陣で生まれ、18歳で西陣高級帯地製造・卸売業を創業しました。後に50代で紫紘株式会社を設立し、唯一無二の感性と技術を活かして、独創的な帯を数多く生み出しました。また、西陣織物同業協同組合理事長や西陣織物館理事長なども務めました。 山口氏の生涯は織物とともにありました。彼は「誰にも出来ないような織物の仕事がしたい。」という強い思いから、70歳で家業から退き、新たな挑戦として織物による「源氏物語絵巻」の制作を始めました。徳川美術館や五島美術館所蔵の国宝「源氏物語絵巻」を参考にしながら、織物による絵画表現の可能性を追求しました。彼は斬新な技法を生み出し、37年にわたって研究を続けました。 2001年、山口伊太郎氏は全4巻中3巻までを完成させましたが、最終巻の織り上がる前に2007年6月に105歳でこの世を去りました。翌年の3月3日、彼の遺志を継ぐ職人たちによって絵巻が完成しました。山口氏の生涯と、「源氏物語錦織絵巻」を含む多くの作品は、今も日本の織物業界に大きな影響を与え続けています。
- 山下 健
山下健氏は、絣織と板締染による織物を通じて、伝統的な絣織模様を基盤にしながら、独自のアレンジや模様世界を作り出しています。山下健氏の作品は明色と淡色・暗色、寒色と暖色を駆使し、幅広い豊かな作風を特徴としています。山下健氏は柳悦孝・悦博両氏の教えを受け継ぎ、「同じものができなければ、本物ではない」という信念のもと、糸作りから染め、そして織りという全工程を自らこなしています。彼の活動は国画会において重要な位置を占めるだけでなく、県内染織界や現代日本染織界においても第一人者として評価されています。山下氏が生み出す織物は、草木染料で染色された糸が放つ色の美しさや素朴な風合いを持ち、その魅力は着物愛好家や専門店から絶大なる支持を得ています。 1955年:鳥取県青谷町に生まれる。 1973年:柳工房にて織物を学ぶ。 1976年:国展出品にて50周年記念賞を受賞し、鳥取に帰郷。 1977年:勤めていた会社を退社し、独立して織物に専念。 1995年:国画会友会に推挙される。 1999年:国画会友会優秀賞を受賞。 2001年:国画会会員に推挙される。
- 山田栄一
山田栄一氏は、友禅楊子糊の技術で人間国宝に認定された着物作家です。山田栄一氏は1900年に京都市で生まれ、若くして染色工場で下絵と彩色の見習いをしました。18歳で三越を退職し、手描き友禅作家・吉川竹翁氏に師事して友禅染の研究を始めました。友禅染の工程を一貫してこなす独自の技法で、特に楊子糊の技法に優れていました。山田栄一氏の業績は吉川竹翁氏によって評価され、口伝で技術を受け継ぎました。楊子糊の糊置染法は友禅染で防染に使われる糊置き技法であり、江戸時代に記録されていましたが、その技術は明治~大正時代に失われていました。1945年の東京大空襲後、山田栄一氏は愛知県に疎開し、そこで友禅作品の制作を続けながら楊子糊の研究を再開しました。その成果が認められ、1953年に楊子糊の技法が無形文化財に指定され、翌年には人間国宝に認定されました。山田栄一氏は1956年に胃がんで逝去しましたが、彼の功績は昭和期における楊子糊技術の復興において高く評価されています。現在は二代目の山田栄一氏が技術の継承に取り組んでいます。
- 山本和子
山本和子さんは、50年以上にわたり創作活動を続ける染織作家です。山本和子さんが手仕事の美に初めて感銘を受けたのは、高校時代に出会った美術教師であり国画会所属の画家である尾田龍さんでした。その後、女子美術大学で染織の道を選び、染織家の柳悦孝氏に師事しました。山本さんは長年にわたり「森へ行こう」というタイトルで作品を制作してきました。柳悦孝先生からの教えに基づき、大地が生み出す資源を大切にする姿勢を持ち続けています。昭和17年に生まれ、昭和41年に東京の女子美術大学を卒業後、地元の兵庫県姫路市で創作活動を開始しました。染織工芸家として、天然繊維と天然染料・化学染料を用いて作品を表現し、高い評価を受けています。彼女はさまざまな展覧会に出品し、平成23年には兵庫県文化功労者を受章しました。現在は兵庫県工芸美術作家協会の相談役も務めています。
- 吉岡恭二
吉岡恭二氏は、染司よしおかの五代目である吉岡幸雄氏の弟で、その後を継ぐ六代目として活動していました。業界に参入してからわずか10年ほどしか経っていないため、吉岡恭二氏の作品はあまり一般に知られていません。現在は既に引退されており、六代目の地位は吉岡幸雄氏の娘が受け継いでいます。
- 吉岡常雄
吉岡常雄氏は、京都にある染色工房「染司(そめのつかさ)よしおか」の4代目当主です。吉岡常雄氏は日本の伝統色を再現するために、古典文献を研究し、世界中の染織品や技術に触れながら、自然の染料による染色に取り組んできました。特に貝紫の研究は他に類を見ないものでした。 常雄氏の作品は、貝紫染めをはじめとして、古代染色や天然染料の研究で知られています。彼は絹や麻、木綿などの天然素材を紫草の根や紅花の花びら、茜の根、刈安の葉と茎、団栗の実など自然界の植物で染め、その美しい色を生み出してきました。 自然から抽出された色には、温かさや命の源を感じさせる深みがあります。
- 矢加部チロヨ
矢加部チロヨさんは、日本を代表する織物である久留米絣の製作に携わってきました。矢加部チロヨさんは伝統を守りながら品質の向上と業界の発展に貢献しました。その作り手たちは確かな技術を持ち、丁寧な仕事で名品を生み出しています。久留米絣は美しく整った絣柄と手括り藍染めの手織り技術で知られ、日本の木綿絣の中でも際立った美しさを誇ります。
- 湯本エリ子
湯本エリ子さんは、京都府亀岡市に工房を構える染色家です。名古屋で生まれ、父も友禅染めの日本工芸会正会員でした。学生時代から染めの仕事に親しんでおり、高校を卒業してからは一般企業に就職しました。20歳の頃に旅した旧ソビエトの大自然に感銘を受け、自然の美しさを表現する仕事を志す決意を固めました。 京友禅の師である山科春宣氏から空間を描く技術を学び、独立後は自然の豊かさをテーマにした作品を制作しています。湯本エリ子さんの作品は色数を限定し、モノトーン調の色彩で生命の息吹と存在感を表現しています。その作品は清々しさと統一感に満ちており、多くの人々を魅了しています。 1951年 名古屋市生まれ 1973年 山科春宣(日本工芸会正会員)の工房に入門 1989年 京都亀岡に工房を構える 2006年 日本伝統工芸染織展 入選 2007年 日本伝統工芸近畿展 友禅訪問着「立夏」滋賀県教育委員会教育長受賞 2008年 日本伝統工芸近畿展 友禅訪問着「椿」京都新聞社賞受賞 2009年 日本伝統工芸展 初入選 友禅訪問着「青柚子文」 同年 日本伝統工芸近畿展 友禅訪問着「秋草文」日本経済新聞社賞受賞 2010年 京都工芸ビエンナーレ 入選 同年 日本伝統工芸染織展 友禅訪問着「金木犀」奨励賞・北國新聞社賞
- 六谷梅軒
- 小宮康正
江戸小紋の技を受け継ぐ染匠、小宮康正氏は、小宮家の三代目として1956年に生まれました。祖父から始まる染工場の一環として、小宮康正氏は1972年に父である康孝氏から江戸小紋の修行を受け、その技術を継承しました。 小宮染色工場の三代目として、小宮康正氏は伝統技術を受け継ぎながらも、常に改良を追求し、江戸小紋の品質を向上させてきました。その功績が認められ、小宮康正氏は重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。小宮家は、同じ分野で三代にわたって人間国宝を輩出した初の偉業を成し遂げました。 江戸小紋のルーツは室町時代にさかのぼり、武士の裃に使用されていたものが江戸時代中期以降に発展しました。江戸小紋は平和な文化の中で花開き、武家文化とともに発展し、庶民にも愛されるようになりました。 小宮康正氏が生み出す江戸小紋の美しさは、柄だけでなく、色の奥深さにも魅力があります。染料の性質によって色が異なり、繊維によって染料が異なる性質を持ちます。小宮康正氏は色を3次元の世界として捉え、色の掛け合わせによって奇跡を起こしています。 1956年東京葛飾区にて重要無形文化財保持者・小宮康孝の長男として生まれる 1972年父のもとで修業を始める 1980年第27回日本伝統工芸展、小紋着尺「木瓜四十本連子」初入選 1983年第30回日本伝統工芸展にて突彫小紋着尺「組み違い連子」文部大臣賞受賞 1988年突彫小紋着尺両面染「立霞入り連子」文化庁買い上げ 1989年第26回日本伝統工芸染織展鑑審査委員東京国立近代美術館「ゆかたよみがえる」展に出品 1990年日本伝統工芸展10周年記念特別ポーラ奨励賞 受賞 1994年第7回MOA岡田茂吉賞 優秀賞 受賞 2006年第53回日本伝統工芸展にて江戸型小紋両面染「梅」高松宮記念賞 受賞 2007年第54回日本伝統工芸展鑑審査委員 2010年紫綬褒章受章 2015シルク博物館「今に生きる江戸小紋」展開催 2018重要無形文化財「江戸小紋」保持者に認定
- 安達雅一
安達雅一さんは、天保年間に初代萬屋直右衛門が江戸・麹町で創業した商家の六代目として、東京友禅の発展に尽力した作家です。父である先代の五代目から染色技術を学び、卓越した技術を持ち、平成19年には黄綬褒章、平成22年には東京都の名誉都民に選ばれました。 安達雅一さんは長年の研究を経て、「うつし糊絵」という独自の技法を開発しました。この技法により、透明感と奥行きのある図柄を友禅染で表現することが可能となりました。 東京手描友禅作家の中でも、安達雅一の名前は特に知られており、彼は素晴らしい作品を多く創作しました。現在は引退されていますが、安達雅一さんの貢献は東京友禅の歴史に深く刻まれています。
- 鎌倉芳太郎
型絵染作家の鎌倉芳太郎氏は、紅型作家として知られています。彼は大正末期に教師として沖縄に赴任し、そこで紅型に魅了されました。長期にわたる古琉球紅型研究の成果をもとに、独自の色彩論や造形論を加味して、60歳になってから新たなる型絵染を完成させました。 型絵染は文様の創案から型彫り、染色までを一人でこなす工芸であり、鎌倉芳太郎氏はその全てを静江夫人の助けを借りながら手がけました。鎌倉芳太郎氏は1961年に日本工芸会の正会員となり、1973年には型絵染の重要無形文化財保持者に認定されました。1983年には84歳で亡くなりました。 紅型に接しているうちに沖縄文化の研究にも取り組み、その鮮やかな色彩や造形に注目しました。彼の紅型研究は高度な領域へと向かい、完全主義的な性向が発表を遅らせた可能性もあります。
- 古賀ふみ
- 神里佐千子
- 坂口幸市
坂口幸市氏は昭和時代の加賀小紋作家の第一人者であり、祖父である中儀延に師事した数少ない加賀小紋作家の一人でした。加賀友禅には手描友禅の他に、加賀小紋などの型友禅があります。型紙を使用して文様を染める手法は、手描き友禅では表現できない緻密な文様を可能にします。 坂口幸市氏は加賀染め小紋の伝統を受け継ぐ有名な作家であり、加賀小紋では唯一の伊勢型紙を使った本格的な型染めの小紋を制作していました。彼の加賀小紋は伊勢型紙を使用して手染めを施し、江戸小紋と似た染め方ではありますが、より優雅で上品な趣が特徴です。 坂口幸市氏は2023年に亡くなりましたが、現在は彼の技術を受け継ぎ、ご子息の坂口裕章が加賀小紋を制作しています。
- 清水幸太郎
清水幸太郎氏は大正から昭和時代にかけて活躍した染色家です。1897年1月28日、東京本所で清水吉五郎の息子として生まれました。清水幸太郎氏は父のもとで家業を学び、父の死去後に松吉の号を継ぎました。清水幸太郎氏は東京長板本染中形協会主催の競技会で金賞および銀賞を受賞し、日本伝統工芸展にも出品し続けました。 長板中形は布地の表裏両面に染色する技法であり、繊細な修練が必要でした。清水幸太郎氏はこの伝統技法を守り抜き、昭和30年に重要無形文化財保持者に認定されました。彼の作品は精巧で繊細、上品な仕上がりであり、江戸時代の好みを反映しています。その美しさは人々を魅了しています。
- 城ノ内みゑ
- 諏訪豪一
諏訪豪一氏は山形県の置賜地方に残る伝統的工芸品である「置賜紬」の1つである「米沢紬」を作っています。諏訪豪一氏は山形県花でもある紅花染めも手がけています。彼の工房では藍や桜、栗の皮、紫根、茜、さらにはサフランなど、自然の草木だけを染料にして糸を染め、その糸で手織りを行っています。そのため、出てくる色は毎回同じとは限りません。これが草木染めの魅力の1つですが、予定していた色と全く異なる結果になることもあり、その調整が最も難しいとされています。 諏訪豪一氏は実家が米沢紬を作ってきた工房であり、彼は6代目として活躍しています。
- 高久空木
高久空木氏は栃木県壬生町出身の染色作家です。高久空木氏は日本美術学校図案科を卒業し、染色工芸界の重鎮である広川松五郎の内弟子として学びました。様々な染色技術で活躍しましたが、日展を退会した後は主に和装品の制作に専念しました。 特に後年には、淡い単色や白地に花鳥を描く帯の製作に力を注ぎ、「帯の空木」としても知られるようになりました。高久空木氏の帯はろうけつ染めの堰出し技法で描かれるため、糸目がなく、シンプルながらも大胆な美しさがあります。
- 鳥巣水子
- 中島秀吉
- 中村勝馬
- 南部芳松
南部芳松氏は着物の模様を染めるための型紙を制作する作家でした。南部芳松氏は特殊な和紙を彫刻刀や小型で彫り、それをもとに色を染めて模様を完成させました。南部芳松氏は明治27年に三重県鈴鹿市で生まれ、子供の頃から父親に型紙の彫刻を学び、山梨、東京、京都などの染色業界で型紙彫刻を幅広く研究しました。 南部芳松氏は伊勢型紙彫刻の中心地である鈴鹿市で活躍し、業界の指導者となりました。南部芳松氏は地元の工業徒弟学校で8年間講師として後進の指導にもあたり、特に突彫り技術で得意とされました。戦後の混乱期には型紙彫刻組合長を務め、型紙の保存と振興に尽力しました。彼が生前に収集した伊勢型紙の貴重な資料は鈴鹿市に保管されています。 昭和30年には「伊勢型紙突き彫り」の技術保持者として人間国宝に認定され、昭和34年には紫綬褒章を受賞しました。彼の手仕事と染師の感性が融合した伊勢型小紋は、連なる点と線が奏でる美しい型紙の旋律と、染め上がった布の煌めきを生み出し、その素晴らしさは卓越した職人技によって実現されました。
- 野口功造
- 野口真太郎
大彦の歴史は、初代野口彦兵衛氏が呉服業の道に進んだことに始まります。彼らは様々な染色技術を研究し、独自のデザインで東京友禅に匹敵する東京友禅を生み出しました。野口真太郎氏は、友禅染と日本刺繍を巧みに使い、美術的な作品を制作する江戸染繍の大家です。野口真太郎氏は初代の野口彦兵衛に続き、二代目の野口真造、三代目の野口彦太郎、そして現在の四代目の野口真太郎まで、伝統を引き継いでいます。
- 深見重助
- 福本潮子
福本潮子さんは1945年に静岡県清水市で生まれ、日本を代表する藍染美術家として知られています。福本潮子さんは大阪市立工芸高校と京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)で学び、特に藍染めの分野で1970年代から国内外で活躍しました。現在は京都で日本の藍を使用した作品制作に取り組んでいます。 学生時代にパプアニューギニアの民族美術に触れ、日本の伝統と独自の技法を組み合わせた藍染め作品の制作を始めました。福本潮子さんの作品は着物や帯、アート作品などに分けられ、それぞれがお互いに影響し合い、福本潮子さんの藍染めの可能性を拡げています。彼女は主に絞りの技法を使用し、「青」による表現の探究を続け、藍の魅力を透明感と精神性に見出しています。 近年では、希少な手績みの業が凝縮された麻布や自然布に注目し、日本の素材感や風景の伝承を取り入れた制作を行っています。福本潮子さんの活動は2015年に『福本潮子作品集 藍の青』が出版され、その集大成として評価されました。また、最新の個展では古布の作品シリーズの新たな展開を見せています。 福本潮子さんの美の世界は藍に囲まれた一点、一条の線のせめぎ合いから生まれ、一色の濃淡のみで表現されます。
- 松枝哲哉
松枝哲哉氏は福岡県で1955年に生まれ、日本工芸会の正会員でした。松枝哲哉氏は久留米絣の名家である松枝家の5代目当主であり、祖父は松枝玉記氏でした。松枝哲哉氏は久留米絣の伝統を150年以上にわたって受け継いできましたが、哲哉氏は2020年7月にこの世を去りました。 久留米絣は伊予絣や備後絣と共に日本三大絣の一つに数えられ、福岡県久留米市周辺で生産される綿織物です。昔ながらの手織りや手括り、本藍染などの技法を守りながら、機械織りや化学染料の導入が進んでいます。松枝哲哉氏は中学時代から藍染めを学び、後に手織りや手括りを習得し、24歳の時には重要無形文化財久留米絣技術伝承者として認定されました。 松枝哲哉氏の作品は久留米絣の中でも大柄な絵絣を手がけ、藍染めで表現される詩情豊かな模様が特徴です。松枝哲哉氏は筑後の自然風景や宇宙などのテーマを絣紋様に取り入れ、藍と白のコントラストや濃淡染めで豊かな世界観を表現しました。その作品は見る者に深い感動を与え、力強さを感じさせます。
- 松原定吉
松原定吉氏は着物作家であり、江戸浴衣の染め技術である「長板中形」の人間国宝に認定されました。松原定吉氏は1893年に富山県魚津市で生まれ、11歳の時に上京し、染色家のもとで修業しました。その後、1955年に長板中形が重要無形文化財に指定され、松原定吉氏の技術は人間国宝に認定されました。 松原定吉氏は脳出血で62歳で亡くなりましたが、松原定吉氏の息子である利男と、利男の息子である伸夫が長板中形の技術を受け継いでいます。松原定吉氏の代表作には、「長板中形正藍染変り縞」や「牡丹に鳳凰」「松にうら梅」などがあります。
- 本村三子
- 森山哲浩
森山哲浩氏は1960年に生まれ、久留米絣の織元として知られています。森山哲浩氏の工房は江戸時代から続く220年の歴史を誇り、経済産業省と文化庁から認定された伝統工芸品である久留米絣を製造しています。森山絣工房は彼が代表を務め、彼自身は日本工芸会の正会員であり、1993年には重要無形文化財である「久留米絣」の技術保持者として人間国宝に認定されました。 森山哲浩氏の経歴には福岡県美術協会の会員としての活動や、日本伝統工芸染織展での工芸会賞受賞、さらにはニューヨークでの展示会での解説などが含まれます。また、第58回日本伝統工芸展では文部科学大臣賞を受賞しました。森山氏はその他にも福岡県美術展の審査員を務めた経験もあります。
- 柳栄枝
- 柳悦州
- 柳悦考
- 矢原早苗
- 横山俊一郎
人気織元
- ぎをん斎藤
「ぎをん齋藤」は、京都東山の祇園に位置する高級呉服店です。この店は、祇園町の芸妓や舞妓をはじめ、料亭の女将や茶道や華道の世界でも幅広い顧客層を持つ一流の呉服店として知られています。 1843年(天保年間)に創業された「ぎをん齋藤」は、現在の八代目である齊藤康二氏によって率いられ、170年以上の歴史を誇る老舗呉服店です。同店は独自の職人による自社製造を行い、自家製仕上げの染物や織物を提供しています。染め物だけでなく、西陣織工房で織られる帯も同店の特色であり、伝統と古典を継承しつつも、現代にふさわしい唯一無二のデザインを追求しています。特に、本店が誇る御所解文様は「ぎをん齋藤」の象徴となっています。 また、「ぎをん齋藤」では帯の制作を手がけ、そのイメージを具現化した『齋藤織物』なども展開しています。徹底したこだわりと卓越した技術によって生み出される芸術品は、時代を超えて受け継がれる伝統工芸の真髄を体現しています。
- 大羊居
江戸時代の安永年間に創業された呉服太物業「大黒屋野口幸吉・大幸」を祖とし、個性的なスタイルを確立し、東京友禅の名を高めた江戸染繍の名門、「大羊居」。 「大幸」に婿養子として入った野口彦兵衛は、「大彦」を独立して創業し、その息子である野口巧造は大正15年に着物の制作会社を立ち上げました。 野口彦兵衛は、東京で独自の染物を作りたいという思いから、京染とは異なる意匠を考案し、手描き友禅による裾模様を生み出しました。また、友禅染めと刺繍を組み合わせた独創的な着物を作り出し、「大彦染」と呼ばれる模様染色の一大地を築きました。野口彦兵衛の長男が野口功造、次男が野口眞造です。 1925年、関東大震災後、彦兵衛が亡くなり、功造は「大彦」を弟の眞造に任せ、自らは本家「大幸」の名を残すために「大羊居」を立ち上げました。 「東京友禅」は加賀友禅や京友禅と並ぶ存在となり、宮内庁も御用達となりました。「大羊居」は古典的なモチーフの他に、外国の風物や自然から構想を得た大胆で個性的なデザインも多く、その存在感のある刺繍や鮮やかな配色で多くの着物ファンを魅了しています。 現在、「大羊居」は日本だけでなく、海外からも高い評価を受けています。初代功造は、新しい道を開拓することに喜びを感じ、「何でも着物の柄になる」という自由な発想で作品を創り上げました。この精神をモットーに、「大羊居」は今も専属の職人を要しながら、美しい模様デザインや染めと刺繍の技術を活かした作品を創り続けています。
- 一竹辻ヶ花
- 志ま亀
志ま亀は1810年に京都で創業し、現在は東京・銀座に本店を構える、200年以上の歴史を持つ呉服の老舗です。当初は都踊りの衣装を手掛けていましたが、ブランドは徐々に成長し、一般の女性にも着やすい着物を製造するようになりました。京都での製造から始まりましたが、昭和25年頃には東京に進出し、現在は銀座に店舗を構えています。東京進出後、志ま亀の名は全国に知れ渡り、着物愛好家から若者までが志ま亀の着物を求めて店舗を訪れるようになりました。現在は七代目の武内美都が志ま亀の伝統を守り続けています。志ま亀の製品は、七代にわたり当主自らがデザインし、全て自社工房で製造されているため、全てがオリジナルとなっています。オリジナル商品を発信し続けた結果、志ま亀は最も多くの柄を染める染め元として知られるようになりました。志ま亀特有の色彩と大きな小紋の柄は「志ま亀カラー」「志ま亀ブルー」「志ま亀好み」と称され、そのデザイン性の高さは多くの着物ファンを魅了しています。また、志ま亀の染色は華やかながらも落ち着いた色合いが特徴で、着物を敷居の高いものと捉えている方にも楽しめるようなデザインが揃っています。
- 勝山織物
- 川島織物
西陣を代表する老舗機屋の1軒として180年以上の歴史を誇る有名な川島織物。 川島織物といえば「本袋帯」として知られ、締め心地の良い帯を目指し、表と裏を同時に同じ厚みで織り上げています。 本金箔やプラチナ箔を使用した格調高い色柄は、気品があり、見る者を魅了し続けています。 お母様はもちろん、お嬢様の振袖や訪問着、留袖など、格調のある着物に最適な逸品です。
- 草紫堂
紫根染はムラサキ、茜染はアカネという植物の根から取った染料で染め上げられたもので、日本に古くから伝わる草木染です。南部地方に伝わったのは鎌倉時代以前と言われ、南部藩政時代には、藩の厚い保護の下で生産されていましたが、明治時代になりその保護が解かれてからは、盛岡地方では伝統技術を伝える人が完全に途絶えてしまいました。しかし、大正5年に、紫根染を復興させるため県の主導により紫根染の研究が始まり、秋田県の花輪地方にかろうじて残っていた技術者を招いてその技術を学び、さらに独自の技法を開発しました。その後、大正7年に「南部紫根染研究所」が設立され、草紫堂初代の藤田謙が主任技師として赴任しました。昭和8年には、南部紫根染所の主任技師であった藤田謙が独立し、現在の場所に「草紫堂」を創業しました。以前の素朴な図柄(大桝、小桝、立桶)に加えて、数多くの新しいデザインを生み出し、現在の絞り染めの基礎を築き上げました。全ての製造工程は手作業で行われ、原反から型付け、絞り、染色、幅出し、仕上げまで、熟練の技術者が手をかけて丁寧に作られます。南部紫根染と言われるこの染料は「大切に着れば100年もつ」と言われています。
- に志山染匠
に志山染匠さんと言えば、無線友禅です。 明治初頭には糸目友禅が主流でしたが、日本画の美しさに魅了され、友禅でその表現を試みた結果、無線友禅が生まれました。 日本画のような気品と重厚さを表現するため、独自の技法で直接生地に図案を描いて染める必要があり、非常に高度な技術が求められます。 特徴的な淡い輪郭線がかすかに見え、その柄はまるで水彩画のような幻想的で美しいものです。 最初は糸目糊を使わないこの友禅は批判されましたが、芸術性を追求し続け、今では多くの人々を魅了しています。
- 河村織物
- きぬたや
- 国画会
- 北尾織物匠
- 工芸きもの野口
享保18年(1733年)、初代の金谷安部兵衛が京都の油小路四条上に呉服商を創業しました。それから280年が経ち、現在では8代目を迎えるまでになりました。この長い間、京友禅の老舗として歩んできたのが「野口」です。 現在の野口では、型友禅、糸目友禅、絞り、刺繍などの技法を主にしてモノづくりを行っています。昔ながらの手仕事と野口が培ってきた感性が融合し、独自の意匠と色彩が生まれます。 「野口といえば小紋」と言われるほど、野口の型友禅には定評があります。型友禅では、使用する色の数だけ型紙を彫り、色を重ねながら染める技法です。最盛期には数十枚もの型紙を使用したり、一つの柄に数百反もの追加注文がつくほどの人気を博しました。 現在では、この型友禅に手挿しによる彩色や染疋田などの様々な技法を組み合わせて、新しい型友禅の魅力を追求しています。さらに、絞りや辻ヶ花染め、刺繍などの技法を用いた染めも行われています。
- 染司よしおか
江戸時代末期から続く染司・吉岡家は、現在6代目の更紗さんが、5代目の幸雄さんの遺志を引き継ぎ、紅花や紫草、団栗、刈安蘇芳など、自然の恵みを用いた植物染料のみで日本古来の伝統色を生み出しています。彼らは東大寺をはじめ、歴史ある寺社に奉納する造り花も染めています。 昔ながらの手法で生み出される日本の鮮やかな伝統色は、海外からも注目されています。訪問着や帯も鮮やかですが、化学染料にはない優しい色彩を持っています。4代目の常雄さんは世界の染色研究に没頭し、特に貝紫の研究で第一人者でしたので、帝王紫はその代表的な色として知られています。
- 洛風林
1952年に創業された「工芸帯地 洛風林」は、プロデューサーとしての役割を果たし、同人と呼ばれる機屋さんに織ってもらうシステムを採用しています。この方法により、他にはない独自の帯地を製作しています。初代が海外で収集した古美術品や工芸品からイメージされた図柄を、上質な素材を使用し、デザインに合わせた一流の機屋さんで織り上げます。色使いも「真実に美しいものは常に新しい」という信条に基づき、流行に左右されない美しく楽しい帯ばかりです。
- 千總
千總は、460年以上の歴史を誇る京友禅の名門です。時代ごとの美を反映し、最高の技術を集めて、多彩な染織品を生み出してきました。千總は1555年に、京都烏丸三条に法衣装束商として創業しました。始まりは、遠祖が春日大社に威儀物の「千切台」を納めていたことに由来し、「千切台」を商標とし、「橘」を家紋として屋号を「千切屋」と名付けました。江戸時代には、御装束師として東本願寺をはじめ門跡家や宮家へ装束を提供し、三条室町衣棚周辺には多くの千切屋一門の分家がありました。明治時代に入ると、友禅染の技術革新に取り組み、天鵞絨友禅や写し友禅など新しい技法を開発しました。千總の友禅は、その技術と美しさで国内外で高い評価を受け、宮内省の御用達ブランドとして知られ、数々の賞を受賞しました。現在、千總は京都・烏丸三条に初のフラッグシップストア「千總 本店」を構え、その卓越した技術力と実績から京友禅の代表としての地位を確立しています。千總は伝統と革新を重んじ、丹後にある専属の機屋でオリジナルの生地を織り、友禅染を施すまで一貫して日本国内で行います。また、専属の図案室があり、図案家が美しい友禅のデザインを生み出しています。千總はオリジナルブランド「CHISO」を展開し、伝統と新たな感性を融合させた着物を提供しています。手描き友禅は、職人の長年にわたる熟練と心意気が込められた日本の美の象徴です。千總は古典を尊重しながらも革新を追求し、人生の特別な瞬間を彩るための美しい着物を作り続けています。
- 大彦
約140年以上の歴史を誇る呉服商、野口彦兵衛は、明治8年(1875年)に初代が創立しました。彼らは友禅染めと日本刺繍を組み合わせた芸術的な着物や染繍作品を制作しています。 先見の明を持った野口彦兵衛は、友禅染という伝統的な技術を駆使し、独自のデザインを表現する工芸家でした。当時、高級呉服の生産は主に京都に集中していましたが、野口彦兵衛は東京で独自の染色技術を生み出す決意をし、染工場を設立しました。彼は自ら職人の育成にも力を注ぎました。彼は着物を単なる消耗品ではなく、美術的な価値を持つ作品として捉え、それぞれに題名を付けて世に送り出しました。 野口彦兵衛の手がけた着物は「大彦染」と称され、一世を風靡しました。彼の店の着物は江戸時代から続く友禅染の伝統技法で染められています。最高の職人と技術が集まった作品は、世界にただ一つの存在です。着物通の憧れであり、呉服業界でも最高峰とされる美術的な価値が非常に高い東京友禅です。 初代の野口彦兵衛に続き、二代目の野口真造、三代目の野口彦太郎、そして四代目の野口真太郎まで、代々にわたって伝統を受け継ぎ、物づくりを続けています。
- 白木染匠
京都で名高い染匠、白木染匠。 その特徴は、糊置きの作業において型を使用せず、職人が自ら行い染め上げる手糸目の最高級染物ということです。 青花で描かれた下絵の線を、デンプン糊やゴム糊などの防染剤に置き換え、染料がにじまないようにする糊置きの工程は、単に線をなぞるだけでなく、下絵の良さを引き出し不足している部分を補う力量が求められます。 長年の経験と卓越した技術を持つ熟練の職人により、白木染匠の着物は伝統を守りながら制作されています。
- 帯屋捨松
- に志田
1941年に創業した呉服店、に志田さんは、小袖や能装束、正倉院文様、草花を題材にした古典的な着物や帯を中心に製作・販売しています。また、花街の芸妓さんや舞妓さんの衣裳も多く手がけています。創業者の西田住連七さんは、叔父である木原光治郎氏が経営していた「古代屋」に奉公し、その後独立して京呉服の店、に志田さんを創業しました。店では、オリジナルデザインの手描き友禅や京刺繍の着物や帯、帯揚げをはじめ、様々な商品を取り扱っており、店主の西田さんのコーディネートに憧れる方も多くいます。京呉服といえば、必ず名前が挙がる呉服店の1つです。
- 染の北川
1955年に創業された北川さんは、「女性を高潔に美しくしたい」という理念のもと、特別な場面で着用するための着物を作っていました。彼らの着物は、贅沢な加工が施された大胆なデザインで知られ、しばしば着物雑誌の表紙を飾っていました。彼らは、オリジナルのシルク生地にこだわり、友禅やさまざまな加工技術を駆使して、豪華で上品な着物や帯を制作していました。残念ながら2017年に廃業してしまいましたが、彼らの作品は今も着物愛好家の憧れであり続けています。
- 誉田屋源兵衛
- しょうざん
- 日本工芸会
- 京屋林蔵
京林は慶長3年に創業されて以来、100年以上の歴史を持ち、結城地の辻ヶ花や、総手刺繍の全通袋帯、刺繍振袖・色留袖など、京屋林蔵さんオリジナルの着物を製作しています。 安土桃山時代から続く着物の老舗である「京林」の初代として知られる初代京屋林蔵は京都の染め物師として活躍していましたが、上質な絹は当時関東地方で多く生産されていたため、糸を求めて関東に移住することを決意し、養蚕が盛んだった現在の高崎市元紺屋に移り、「京屋」という屋号で染物店を創業しました。それ以降、代々の当主が京屋林蔵の名前を襲名して現代まで受け継がれ、17代林蔵の時に元紺屋町から、1974年に井野川のある高崎市郊外の井野町に染工房を移転し、現在は向井敬介が第18代京屋林蔵として活躍し、贅をつくした逸品を今も製作しています。安土桃山時代から現代まで受け継がれる京屋林蔵の特徴は、その作品のすべてが手描き友禅によって作られているという点にあります。 現代では、型友禅の作品が多く見られますが、京屋林蔵では、手作業に力を入れているため、作業工程を丁寧に行い、重厚かつ温かみのある作品を世に送り出しています。
- 龍村美術織物
- 出羽の織座
山形県米沢市に位置する出羽の織座は、科布や紙布、こぎん刺し、ぜんまい織など、日本の伝統的な織物の研究と復興に取り組んできた伝説的な工房です。また、日本国内で唯一の原始布・古代布の資料館も運営しています。 出羽の織座の山村幸夫さんは、自身も原始布・古代布の専門家であり、資料館の館長も務めています。彼は素朴な職人の仕事に美を見出す人物であり、その造詣は深いと評されています。
- 矢代仁
- 都喜エ門
- 尾嶋商店
- 池口織物
- 長嶋成織物
- 帯の岩田
大正10年1月10日、岩田藤治郎が京都市上京区にて岩田商店を創業しました。 独自のデザインと創造力で、岩田商店は西陣の帯地メーカーから常に注目を集める存在となりました。 創業当初からのオリジナリティと妥協のない品質への取り組みにより、「帯の岩田」ブランドが確立し、和装愛好家の間でも岩田の帯は高い信頼を得るようになりました。 「岩田」の帯は、その評判が高まるにつれて、全国の高級呉服店や百貨店で取り扱われ、皇族を含む日本の社交界でも多くの愛用者が生まれました。 岩田の帯は、優れた織り技術を土台に、日本の歴史の中で育まれた伝統的な文様の美しさと、時代のセンスを融合させたお洒落な柄風を特徴としています。 京都の染織技術は平安京の時代から続くものであり、その品質は世界最高水準です。 岩田の帯は、織り職人の心意気を大切にし、時代を超えて美しさを追求する姿勢が絶大な信頼を築いています。
- 大西織物
- 服部織物
- 桝屋高尾
- 紋屋井関
- 山口織物
- 久保耕
- 若松華瑶
- 千切屋
- 河合美術織物
- 灘織物
人気産地
- 越後上布
新潟県南魚沼市や小千谷市で生産される「越後上布」は、苧麻を原料とする日本最古の織物の一つです。手うみで作られた苧麻糸を使用し、手括りの絣模様を地機で織り上げ、湯もみでしぼりをかけ、地白の場合は雪晒しを施します。福島県昭和村では、爪と指先で細かく切り裂いた麻の繊維を撚り合わせて糸にし、透けるような薄さと軽さが特徴です。この極上の夏織物は、盛夏の最高のお洒落着として季節の染め帯や古代布との組み合わせもおすすめです。
- 伊兵衛織
伊兵衛織は、静岡県浜松市の旧家高林家で製造されていた希少な紬です。この独特の織物は、通常の絹糸よりも4倍ほど太い「玉繭」を使用して織り上げられ、複雑に絡み合う独自の「フシ」が特徴です。使うほどに味わいが増し、その変化を楽しむことができるため、人気があります。また、伊兵衛織は丈夫さだけでなく、触り心地も実にしなやかで、シワになりにくく、肌触りもしっとりとして滑らかです。
- 加賀友禅
江戸時代に宮崎友禅齋が発展させた加賀友禅は、京友禅や東京友禅と共に日本三大友禅と称されています。この友禅では、箔や絞り、刺繍などの技法はほとんど使用せず、加賀五彩「臙脂・藍・黄土・草・古代紫」を基調とした染色とぼかし技法のみで描かれます。また、製作工程の多くを一人の作家が手掛けるため、個々の個性が最も表現される友禅とされています。人間国宝である木村雨山氏の大胆な構図や、初代由水十久氏の繊細で可愛らしい童子など、巨匠たちの作品はまるで絵画を鑑賞しているかのような印象を与えます。
- 川平織
川平織(かびら-おり)は、日本工芸会正会員である深石美穂(ふかいし・みほ)さんが制作した草木染織生繭布の反物およびその反物から作られた着物を指します。時には石垣川平織(いしがき・かびらおり)とも呼ばれます。 この織物の名前「川平」は、深石氏が工房を構えた地、沖縄・石垣島の川平湾(かびら-わん)から採られました。川平湾から名付けられた「川平織」は、沖縄特有の豊かな光を浴びた色鮮やかな自然の美しさを表現しています。 この織物は、石垣島で収穫された草木から作られた染料による絶妙な色合いや、経緯絣の美しい模様、透明感のある風合いなどが特徴です。その美しさは、初出荷直後から着物通たちの注目を集めました。
- 綾の手紬
- 江戸小紋
- 茜染
盛岡の草紫堂さんの南部しぼり茜染の着物や帯は、紫根染と同様に、地元の職人が手絞りで何度も染め上げ、数年かけて完成させます。そのため、着物や帯には深みのある色合いが特徴であり、歳月を経るごとにさらに味わい深くなります。
- 小千谷縮
- 伊那紬
長野県南部の伊那谷で生み出される伊那紬は、「蚕の国、絹の国」と呼ばれるこの地域の長い歴史と伝統を受け継ぐ織物です。 草木染めにはりんご、どんぐり、山桜、白樺、唐松などの自然素材が使われ、その天然の色合いは柔らかく、美しく調和します。 さらに、「玉繭」や「天蚕糸」といった様々な種類の糸を組み合わせて織り上げられた伊那紬は、ふんわりとした柔らかな風合いが特徴です。その空気を含んだ生地は肌触りが良く、身に着けると心地よく体に馴染みます。
- 会津上布
福島県昭和村では古くから栽培されている苧麻(からむし)は、本州唯一の生産地です。この苧麻は会津からむし織りに使われるだけでなく、国の重要無形文化財である「越後上布」「小千谷縮」の原料としても利用されています。 からむし織りは通気性と吸湿性に優れており、軽やかでしなやかな着心地が特徴です。着用するほどにその素晴らしさが伝わる、夏の着物の中でも極上の一着と言えるでしょう。
- 黄八丈
- 大島紬
大島紬は、もっとも有名な紬の一つとされています。奄美の壮大な自然を表現する伝統的な紋様の泥染めや、現代風のモダンなデザインや色彩、世界的に類を見ないほど緻密な絣紋様など、時代に合わせた織物が作られています。これは、図案、染織、機織などが細かく分業された製作過程と高度な技術によるものです。大島紬は着用すると馴染みやすく、扱いやすいこともあり、長く愛される魅力があります。染め下げの白地から、絵画のように細かな絣で織られた美術品のような反物まで、さまざまな種類があります。
- 京友禅
- 藍染
- 郡上紬
特筆すべきは、郡上紬の快適な着心地です。暖かさ、柔らかさ、そして肌触りの良さが郡上紬の最大の特徴であり、その織り方は独自の縞織と絣織を組み合わせています。大量生産が行われていないため、郡上紬は愛好家たちの間でしばしば「幻の紬」と称されています。また、人間国宝である宗広力三氏によって脚光を浴び、日本の伝統美を体現しています。しかしながら、現在では継承者が少なくなり、その存在はますます希少価値が高まっています。
- 久留米絣
日本三大絣のひとつであり、木綿の絣として初めて国の重要無形文化財に指定されたことで有名です。手括りによる独特の織り方は機械では再現できず、深い味わいを生み出します。天然の藍染による鮮やかで美しい藍色も特徴的です。さらに、熟練の職人が投げ杼で手織りすることで生まれる製品は、重要無形文化財に相応しい逸品となっています。
- 献上博多織
- 小倉織
小倉織は九州の特産品であり、350年以上の歴史を誇りますが、昭和初期に一時途絶えました。この途絶えた小倉織を復元したのが、北九州市出身の日本工芸会正会員である染織家の築城則子さんです。小倉織の特徴は、粋で潔いたて縞の配色であり、厚みがありながらもしなやかな肌ざわりです。特に、緻密な経糸の配色によって生まれる繊細なたて縞のグラデーションは美しく、他の木綿布では見られない特長です。
- 正藍染
- 薩摩絣
東郷織物が生産する綿薩摩は、大島紬の機織技術を採用しています。細い木綿糸を使用するため、手触りは絹織物のように非常に滑らかです。ただし、織る際には絹よりも滑りが悪いため手間がかかり、亀甲や緻密な絣の場合はさらに細かい作業が必要であるため、生産数は多くありません。また、図案の製作も自社で行われるため、東郷独自の抽象的な模様が多く見られ、洗練されたデザインに魅了されます。一般的には綿薩摩と呼ばれますが、東郷織物では手織りの絣糸を使用したものを「薩摩絣」と表示しています。
- 科布
「科布(しなふ)」は、「シナノキ」や「オオボダイジュ」の樹皮から作られる古代の布の一つで、葛布や芭蕉布と並んで日本三大古代布に数えられます。現在では新潟県や山形県の一部地域でのみ生産されています。この布は、樹皮から取れる靭皮(じんぴ)繊維を取り出し、灰汁で煮て薄く裂き、でき上がった糸で丹念に織り上げます。通気性が高く、軽く、水に強く、使い込むほどに味わいが増す織物です。素朴で野趣味に富んだざっくりとした生地感を生かして、八寸名古屋帯や角帯、草履、バッグなどが作られ、特に盛夏の装いに最適です。2005年には「羽越しな布」が伝統工芸品に指定されました。ざっくりとした手触りと落ち着きのある風合いが特徴です。
- 久米島紬
04年に国の重要無形文化財に指定された久米島紬は、蚕から取れた真綿で紡いだ糸を原料とし、天然の草木や泥染めによって染色されます。織りは、手投げ杼を用いて丹念に手織りされます。伝統の技術が今も守られ、図案、染料作り、絣織り、糸染め、そして織りの前工程が一貫して一人で行われるのが特徴です。1反ごとに作り手の個性が反映され、心を癒す味わいがあります。
- 紫根染
岩手県盛岡で伝統的な紫根染めを守り続ける草紫堂さんの南部絞り着物や帯は、地元の職人による手絞りで濃淡が美しく表現されています。さらに、年月を経るごとに味わい深い色へと変化していくので、一緒に歳を重ねていく楽しみがあります。絹地と綿地の品物があり、画像を拡大すると生地感や絞りの細部までよく見ることができます。
- 藤布
藤布(ふじふ)とは、藤の蔓を細く剥いで糸を作り、織り上げた布のことです。ざっくりとした素材で通気性が良いため、昔は夏着の一つとして広く使われていました。しかし、明治時代に木綿の大量生産が可能になると、藤布は衰退しました。現在では夏帯などでわずかに使用される程度です。藤布はほとんど見かけることがなくなりましたが、古代から近代にかけては日常的に重宝されていました。 藤布は万葉集にもその名が残る古代からの布でしたが、その厳しい作業工程から中世以降は麻や木綿に取って代わられ、徐々に衰退していきました。しかし、丹後半島の上世屋地区に伝わる技術が、加畑兼四郎さんを中心とする人々の努力によって守り継がれ、現在も制作が続けられています。 藤布の歴史は非常に古く、縄文時代から弥生時代には既に生産されていました。日本最古の歴史書である古事記にも、「春山の霞壮夫の母が、藤蔓から衣服や袴、靴下や履物を一夜で製織して与えた」と記されています。繊維が長く強いため、普段着はもちろん、仕事着としても活躍していたようです。 科学繊維とは異なり、藤布は紫外線にも強く、その耐久性は何十年も作業着として使っても破れにくいと言われています。
- 首里の織物
- 白鷹紬
山形県白鷹町は、米沢藩の時代から織物の産地として知られる場所で、そこで織られるのが白鷹お召しです。このお召しは、絣文様に合わせて彫った絣板の間に糸を挟み込み、重ねて締め付けて染色する「板締絣染め」という高度な技法が用いられています。この技法によって、緻密な絣糸と強撚糸を作り出し、シャリ感のある独特のシボ感と精緻な絣柄が特徴となっています。 この織物は肌にピタリと張り付くことなく、ふわりと気持ちよく風を通してくれます。精緻な絣柄とさらりと肌をすべるシャリ感は、単衣にも人気があります。現在では、白鷹お召しを製織する機屋はわずか2軒しか残っておらず、非常に希少な織物となっています。
- 精好仙台平
- ざざんざ織
2頭の蚕が作る玉繭からは、大量生産できない「玉糸」が作られます。この玉糸は、あかねややまももなどの草木染料を主に用いて丁寧に染め上げられ、昔ながらの手織り機で織り上げられます。そのため、独特の艶や光沢があり、使ううちにますます柔らかく馴染んでいきます。着物は単衣に仕立てられますが、袷の季節でも着用できます。 柳宗悦や芹沢けい介らと共に民藝運動に参加した初代から受け継がれた織物は、今でも着物愛好家の憧れです。しかし、生産数が非常に少ないため、手に入れるのが難しい逸品です。
- 東京友禅
- 津軽こぎん刺し
江戸時代、津軽の農民たちは麻の着物しか許されませんでした。津軽の厳しい長い冬を少しでも快適に過ごすため、保温と麻生地の補強のために、麻布に木綿の糸で刺し子を施すようになり、「津軽こぎん刺し」が生まれました。この技法の特徴としては、縦の織り目に対して奇数目を数えて模様を全て手刺しします。津軽こぎん刺しの基本模様は「モドコ」と呼ばれ、現在約40種類あります。これらを組み合わせることで、より大きく美しい模様が生まれます。
- 丹波布
丹波布は、明治時代末まで佐治地方で農家の片手間として織られ、当初は縞緯や佐治木綿などと呼ばれていました。しかし、その価値が見出され、昭和28年の復興時に柳宗悦によって「丹波布」と名付けられました。 「丹波布」の特徴は、この地域独特の風土に根ざした素材、技術、意匠の3つの要素によって形づくられています。繊維は手で紡いだ綿を使用し、わずかな屑繭から取った「つまみ糸」を縦糸に織り込みます。染色はすべて草木染めで行われ、藍と茶の色調に大別されます。藍は数段階に分けて染められ、茶系統も様々な植物や素材を使い、段階的に染められます。この染色された糸を縦糸と横糸にして織り上げます。 丹波布は現在、数寄者や茶人などにも愛されていますが、後継者の不足など、さまざまな問題があります。
- 宮古上布
日本三大上布の1つであり、600年の歴史を誇る宮古上布は、沖縄県宮古島で生産されています。宮古上布の製造工程は大きく5つに分かれており、「苧績み」「絣締め」「括染め」「織り」「砧打ち」です。 まず、「苧績み」では、苧麻の茎から取れる繊維を手で1本ずつ裂いています。次に、「括染め」では、苧麻糸を使って琉球藍を何度も染め重ねます。その染め重ねた糸を使い、「織り」では経糸に1,120本以上もの細い糸を用い、3カ月以上かけて白い絣模様の中に亀甲や花柄の模様を織り込みます。最後に、「砧打ち」では、反物に光沢を出すために糊を付け、樫の木の台に置いて木槌で叩きます。 これらの工程はどれも手を抜くことのできない作業であり、惜しみなく費やされた手間や時間の結晶が、最高級の織物を生み出します。宮古上布の特徴は、括染めによって生まれる琉球藍の濃い紺色の中に浮かび上がる美しい絣模様や光沢のある風合いです。また、苧麻の細く薄い糸のおかげで、程よく軽い透け感があり、濃い色合いでも涼やかに見えます。 宮古上布は、1978年に国の重要無形文化財に認定され、夏の極上の逸品とされています。
- 西陣
- 芭蕉布
- 紅型染め
- 蓮香布織り
- 唐桟織
- 与那国花織紬
与那国織は、沖縄県八重山郡与那国町で作られている織物です。その特徴は、独特の風土と手作りによって染め織り上げられた素朴な美しさにあります。 与那国織の起源は、室町時代の15世紀頃にさかのぼります。朝鮮の史書「李朝実録」によれば、1479年にはすでに与那国島で機で布が織られていたとされています。 最も一般的な与那国織である与那国花織は、直線的な幾何学模様で、子縞柄と小さな花模様が織り込まれています。時代とともに色彩やデザインが変化しています。 ゆっくりとした時間をかけて織り上げられる与那国織は、島の特産品としてだけでなく、着物や帯、手ぬぐい、ネクタイ、バッグなどの製品にも使用されています。 与那国織のしとやかでなめらかな糸の渡りは、ただただため息が漏れるほどです。このような緻密な意匠を手で織り上げた着物は、素晴らしく美しく、一瞬で魅了されます。細かな浮織の凹凸によって生み出される光沢感は、本当に見事で、顔立ちも明るく演出してくれます。
- 綿薩摩
東郷織物が生産する綿薩摩は、大島紬の機織技術を活用しています。極細の木綿糸を用いるため、手触りは絹のように非常に滑らかです。ただし、木綿は織る際に絹よりも滑りが悪く、細かい亀甲や絣を織るには手間がかかりますので、生産量は限られています。また、図案の制作も自社で行われるため、東郷独自の抽象的な模様が多く見られ、洗練されたデザインにも魅了されます。一般的には綿薩摩と呼ばれますが、東郷織物では絣糸を使用し手織りされたものを「薩摩絣」と表示しています。
- 八重山上布
八重山上布は、沖縄県八重山郡周辺で作られる織物です。苧麻の手紡ぎ糸を用いて織られ、古くは琉球王朝時代には貢布としても用いられてきました。この織物は沖縄地方で唯一、「刷込捺染技法」が用いられ、焦げ茶色の絣模様が浮かび上がる清涼感溢れる白地の布が特徴です。主原料は苧麻から作られる繊維で、染料にはヤマイモ科の「紅露」(クール)が用いられます。織り上げた後は、八重山の強い日差しで一週間から十日程度日晒しを行い、深い色合いに変化させます。その後、「海晒し」を行い、色止めや余分な染料を落とし、地色が白く晒され絣模様がより鮮やかになります。八重山上布の特徴は、苧麻手紡ぎ糸のさらっとした風合いと風通しが良いこと、白地に浮かび上がる大らかな絣模様です。一反の着尺を織るための糸を作るには、経糸が約50日、緯糸が約40日かかるため、非常に根気のいる作業です。近年では、ラミー糸(手紡ぎではない苧麻の糸)を経糸に使用したものも増えています。
- 優佳良織
珍しいのは、現代の和装に使用される羊毛織物です。通常、羊毛は50~200色程度に染められ、それらを混ぜ合わせてから糸を紡ぎます。このため、複雑に混ざり合った色の繊細さが最も魅力的です。つづれ織や浮かし織で織り上げられた模様には、北海道の四季の花や風景をテーマにしたものが多くあり、美しい帯が作られます。しかし、現在は小物の製作が主流であり、帯の生産はほとんど行われていないため、希少価値の高い品物となっています。
- 牛首紬
二匹の蚕が作った玉繭を緯糸に使用して織り上げられた紬は、非常に丈夫であり、釘に引っかけても釘が抜けるほどの耐久性を持つことから「釘抜紬」として知られています。熟練の職人が昔ながらの座繰りで糸を挽いた結果、空気を多く含んだ糸には弾力があります。この特性により、通気性が高く、シワになりにくい玉繭独特の生地に加えて、軽くて肌触りの良い柔らかな着心地と美しい光沢が特徴です。大島紬や結城紬など、絣で模様を出す先染めの紬に加えて、後染めの訪問着や小紋、袋帯などもあります。これらは白い生地に加賀友禅などで柄付けされており、カジュアルからセミフォーマルな場面まで幅広く着用できます。
- 結城紬
結城紬は、日本を代表する高級絹織物の一つであり、その特徴の一つは繭を広げて得られた真綿を手紡ぎした糸で織られていることです。柔らかな真綿を撚りをかけずにふっくらと紡いで糸にし、たくさんの空気を含んだ糸を優しく手織りする伝統的な技法が守られています。1956年には最古の機織り機で織られたものが国の重要無形文化財に指定され、2010年にはユネスコ無形文化遺産として登録されました。 結城紬の代表的な柄の一つに亀甲があります。亀甲柄は、1反の幅(約40センチ前後)の中に並ぶ亀甲の数を示します。80亀甲、100亀甲、120亀甲などの柄があり、さらに160亀甲となると、より細い糸で作られるため、希少性が高く、めったに出会えないお品となります。 結城紬は軽くて暖かく、身体に優しく馴染み、着崩れしにくい特性があります。日常着として着用することで特別な気持ちを味わえます。また、結城紬は三代にわたって着用できるほど丈夫であり、経年とともに風合いが育まれるのも魅力の一つです。
- 弓浜絣
- 読谷山花織
読谷山花織は、沖縄県中頭郡読谷村で作られている織物です。この織物の特徴は、織り地に先染めされた糸を用いて花のような幾何学模様の文様を織り込んでいることです。素材には絹糸もしくは綿糸が用いられ、染める素材には琉球藍や福木、すおうなどが使われます。 伝統的な読谷山花織は、琉球藍で染められた紺地に赤や黄、白色などで花模様が表されます。花模様は基本的な単位の図柄が決まっており、それぞれに意味があります。「ジンバナ(銭花)」と呼ばれる銭に似せた花模様は裕福になるように、「オージバナ(扇花)」は末広がりの扇の模様が子孫繁栄を表し、「カジマヤーバナ(風車花)」は沖縄の風習にならって長寿を祝う風車の形をしています。これらの基本模様に縞や格子を組み合わせ、複雑な模様を生み出した織物は、立体感のある花柄が華やかな雰囲気を醸し出しています。 読谷山花織は沖縄県指定の無形文化財および経済産業大臣指定の伝統的工芸品として名高く、与那嶺貞氏の貢献により復活しました。彼は人間国宝にも認定されています。丁寧な手仕事の温かみが感じられる沖縄の染織品は、歴史と気品がしっかりと息づいています。
- 琉球美絣
琉球美絣は、真栄城興盛の実父である故・真栄城興盛が創り上げ、琉球織物の伝統に忠実に従いつつも、自らの美意識を昇華させた、従来の琉球絣とは異なる絣織物です。草木染めによる独自の染色技法を駆使し、琉球絣の要である琉球藍の染色にこだわり、美しく鮮やかな深い色彩を実現しました。 琉球藍と琉球の絣が見事に融合した琉球美絣は、伝統的な薫りを保ちつつも、現代的でありながらも生き生きとした美しさを表現しています。薄絹に微かに透ける織り目や、藍の色合い、絣の模様が絶妙に調和し、創造的な美しさを醸し出しています。真栄城興盛氏から真栄城興茂氏へと受け継がれた琉球美絣は、興盛氏の時代よりもさらに作品性が豊かに表現されており、藍を育てる過程から始まる多くの手間暇をかけた贅沢な逸品です。
- 琉球草木染
- 塩沢紬
- 信州紬